
恭次郎君は、カラカラと日和下駄の音をさせてやってきた。世田谷、赤堤一丁目の山本というお百姓さんの畑の中にあった私たちの家へ。つまり図書出版渓文社へ、昭和 6年の秋のある昼過ぎであった。彼は風呂敷包みから『断片』の原稿を出して「是非これを作ってもらいたい。表紙にはボルトのカットをつけてくれ給え。ぼくの希望はそれだけで、あとは君にまかせるから、たのむ。」と言って、その夜は泊まった。当時、私はまだ慢性腎臓炎が治っていなかったし、酒をたしなむ方でなかったから、酒はなかったが、脊椎カリエスで寝ていた竹内てるよ君も寝床に、はらばいになったまま仲間にはいり、賑やかな晩餐となった。
恭次郎君はよく笑い、しゃべり、きげんがよかった。竹内君もよく笑う。
「これはうまいんだ。!」と言いながら、恭次郎君はいろり火で生がを焼いて、それに味噌をつけてぼりぼり食べていた。他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが__。
翌朝、恭次郎君は『断片』の製作の一切をぼくにまかして、前橋へ帰った。その後『断片』が出来上がるまでに、一度だけ前橋から出てきたように憶えている。材料費は恭次郎君が置いていった。
それから、じきに『断片』作成にとりかかった。活字、印刷機その他印刷に必要な一切のものは、淀橋の西山勇太郎君の所に置いてもらっていたから、赤堤から淀橋通いがはじまった。それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………西山君は木村鉄工所に住込んでいて、一と部屋というよりも小さい一軒建ての家にいた。そこに渓文社の印刷関係一切のものがあった。万年床の敷いてある暗い部屋で、昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかった。活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。出来上がりの厚みが出るようにと希望もあったから、厚ぼったい、色のきたない「ちけん紙」に刷った。何から何まで唯一人でやっていたので、一日かかって、僅かしか出来なかった。朝めしをすませて、すぐ出かけてきて夕方までやった。夕方ともなれば、腹を空かして待っている、寝ている友人がいたので、おかずなど買って急ぎ足で帰っていった。
表紙にはボルトのカットを入れてくれ__と言われていたし、標題の字体の希望も聞いてあったので、その意向を出来るだけ生かしたいと思ってやったのだが、どうも、うまくいかなかった。恭次郎君は何も不満を言ってはこなかったが、意にそわなかったものがあっただろうと今も思っている。私自身そうだから。
ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから「まあ、いいでしょう」と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした。本文が全部刷上るまで何日位かかったか覚えていない。
いよいよ本文が刷り上ったけれど、表紙を印刷した後、製本屋に頼のんでやってもらった。
出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった。はじめは糸かがりで製本してもらうつもりでいた。それなら、本文の紙が、こわばっていても、すっかり開いて見れるから。ところが、小さい製本屋さんであったのと、刷り方がまちがった、というより、手きんで一頁ずつ刷ったので、糸かかりにできないとの理由で、上から針金どめにしてしまったから、まことにまずいものになってしまった──というわけである。
しかし、いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。
この時、恭次郎君の詩を一頁一頁刷ってくれた、手きんは、渓文社を興すときに、協力して貸してくれた。森竹夫君のものであった。 私は、いま詩集『断片』を持っていないので、一層なつかしさを覚える。あの燃える心で『断片』を作った三十数年前を昨日のようにも近く感じられる。今度『萩原恭次郎全詩集』が刊行されるということは、何んとも喜こばしいことであり、その刊行の意義の大きさと重さを思う。……甲州猿橋にて
( 1966.9.28 )

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