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題字 高村光太郎筆

 竹内、高村光太郎の回想
「文通することやがて二十年、先生は上がりまかなに手をついたわたくしに、おゝしばらく、といわれて、はつとされ、あなたとは初めて逢うのでしたねと、そのことばを訂正された。」「そのやゝ面長なお顔を、若い一すじな人達の方へむけて静かに、にぎやかに、飲んでおられた。私は思い出す。その頃、神奈川県と東京都との中間にあつた私の家で──その家は六郷川の川原にある土手の下になつていた。よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があつた。私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達──この人と私は今も親密に交際している。──Kとその時丁度前橋から上京して来たH氏と二人で、本郷の駒込にあつた先生のお宅へたずねて行つたことがあつた」

 恭次郎も当時の竹内の生活を詩で表現している。

あんまり考えるな──ある女の像
1930年3月
『弾道』第一号1930.3
小野十三郎、岡本潤、萩原恭次郎、竹内てる代、金井新作、局清、猪狩満直、小森盛、坂本七郎 萩原恭次郎「技術についての問題」

11月
『弾道』第六号1930.11.15
「北緯五十度の仲間へ」高山慶太郎、岡本潤、植村諦、小野十三郎、竹内てるよ、局清、鷹樹寿之介、鈴木靖之
1931年9月 『明日は天気だ』渓文社刊行
1932年10月 翻訳「二人は斯うして死んだ(新刊『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』より)「渓文社月報」10月

 竹内はこの時期の草野心平を回想している。
「わが二十代の日は」
風は空に荒れていた
すべての鳥やけものが穴に入つても
人の子は枕するところがなかつた
さまよいゆけば 石炭がらの街に
夕陽はあかく波を打つていた

わたくしたちは 夢みていた
友達のやきとりやの屋台の燈が
みかんいろにコンクリートにこぼれていて
よごれたのれんから ひげずらがのぞいた
「やろうぜ」と合いことば

やきとりやは きようも赤字ばつかりで
友達の中に腹のくちいものはない しかも
「やろうぜ」こそ合いことば

友よ 思い出そう 昔の日を
おたがいは もつと親しくもつと烈しく
友よ 思い出そう 二十代の日を
そして 再び立ち上がろう いまこのとき
「やろうぜ」はいまいちど合いことばだ

1934年1月 『宮沢賢治追悼』(次郎社、渓文社発売)編纂

 1929,30年の六郷町時代にはクロポトキンの学習を中心にした雑誌『相互扶助』が、謄写刷りにより第二号まで出されたという。そして竹内てるよ詩集『叛く』(改定増補版、題字、高村光太郎)、竹内てるよ隋筆集『曙の手紙』(題字、高村光太郎)がまず刊行されている。

 竹内は1930年創刊の『弾道』(小野十三郎、秋山清発行)にも詩を寄稿(創刊号、6号)。同誌への寄稿仲間で八王子に住んで居た坂本七郎は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねたという。彼もまた渓文社のよき協力者であった。坂本は『弾道』2号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿。

 坂本自身は1929年、謄写刷りで60部前後の印刷、同年に9号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。
「……坂本七郎が静岡で芝山群三、杉山市五郎らと雑誌『手旗』を創刊したのは1928年6月頃であったが、この前後から1932年ころにかけての坂本七郎の地図は、大阪、静岡、前橋、八王子、名古屋、甲府、水戸と移動している。この間にそれぞれ東京がはさまっているのだから、5年間ほどは生活の拠点というべきものがなかったわけである」と伊藤信吉は前出の本で語っている。

 坂本は恭次郎とも親しかった。「思い出断続」より 
 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」「恭次郎はわたしの第一印象を<バクダンを抱いているような男>と横地に語ったという。わたしは一目で恭次郎が好きになった」
 アナキズム運動に関わり、近かった詩人たちのあいだにはこのような交流が成立していた。坂本は『断片』の批評を執筆している。

「八年前、詩集『死刑宣告』が出た時、人々は驚動して《これこそ詩のエポックである!》と叫んだ。八年後の今日、われわれは一冊の『斷片』を手にして、これこそ真に生活し行為する者の革命の書であると叫びたい。五十九の斷片。…著者の、ぎりぎり引きしぼる発矢である。……」
五十度の斷片──萩原恭次郎詩集「斷片」を読む
 
 全59篇にわたり、恭次郎の近くにいた坂本ならではの「断片」の読み取りを著している。
 坂本の個人詩誌『第二』は謄写版刷りでわずか60部の発行、復刻はされていないが、いくつかの文学館の所蔵を合わせると九冊、全号を閲覧することはできる。掲載詩は他誌への転載もあり、目に触れられているが坂本自身の編集記はこれまで引用されることもないので紹介しておく。

 『南方詩人』の今度は、竹内てるよ号にする相ですが非常にいいことです。彼女の詩集に就いては『学校』六号で草野が二頁書いていますが実に適切な文章で、私は読んで、自分の言いたいことをすっかり言って貰ったときの歓喜にうたれました

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。

 もう今夜は一時に近いようです。信州からの上り列車が、今八王子駅に着いたようです。駅夫の呼声がします。蚊がひどいのと、さすがに少し疲れてきましたから、それではこれで筆を止めます。どうか、元気で働いて下さい。(八月十三日)

 後記的に B 二つの詩集と五つの雑誌、猪狩満直の『移住民』と竹内てるよ君の『叛く』に就いては『第二』なぞで言う必要もなく云っても大した広告にもならないと思うけれど、『叛く』の再版(活字版による)は是非とも実行したいと思う。そしてその売上げ(この言葉はむしろ楽しい)をみんな竹内君の食事や注射代に出来たらどんなにわれわれは本望だろう。………>

 草野がガリきりをした謄写刷りの『叛く』は在庫がなくなったのだろう。謄写印刷のすり部数は限られている。原紙の状態がよくても二百、三百部が限界であろう。また用紙代もかかるであろうから発行部数の制約はあった。

 今夜は雨も降って来たし、役所の(水道事務所)宿直部屋の電灯は実に暗く、時計は十時を報じているのでどうしても性急にさせられる。書きたいことは沢山ある。第一にいつも原稿を送って貰ってもろくなお礼も返事も出せない詫び。竹内君の病状の報告。今日来た神谷君からの便りによると《…竹内君も「きっとよくなる」と言っている。歩くけいこをしている。野菜を買いに行った帰り富士を見たので竹内君にその話をしたら『山がみたい』ときかないので、手をひいて土手まで出た、そしたらてるよ君はうれしそうにきよろきよろ見廻して涙ぐんでいた》

というようなことが書かれてあった
…それから、十号は今年中に出したいと思いますから、どうか書いて下さい。それからあなたの親しい真実なお友達でこの雑誌を見せたいと思う人があったら知らせて下さい。今、丁度六十人の仲間にわけています。いつも一部も残りませんので折角云って来られても送れないことがありましたが、先に云って下さればその分も刷ります。それでは、どうか元気で、くれぐれも御健康で。僕も頑健で仕事し勉強しています。一九二九、一一、六 夜記


とある。結局この号が最終で10号は出されなかった。
『第二』の終刊を引き継いだわけではないだろうが、印刷の技術を一定習得した神谷と同志竹内の渓文社は翌年から本格的な出版活動を始める。


 竹内は恭次郎の個人誌に寄稿している、
1932年6月
『クロポトキンを中心にした芸術の研究』
萩原恭次郎 前橋市外上石倉自家版、謄写印刷
第一号1932.6
詩 伊藤和(<馬事件>で投獄された経験を表現)、吉本生、小林定治、萩原恭次郎「もうろくづきん」
評論 小野十三郎「作家と民衆との接触に関するクロポトキン並びに我々の見解」、坂本七郎「芸術の社会性の研究」
消息記事 「千葉県に於ける雑誌『馬』の同人である両君の秘密出版、不敬事件。伊藤和君、懲役2年(4ヶ年間執行猶予)。田村栄君、懲役3年(東京衛戍監獄)。伊藤君の証人として萩原恭次郎、田村栄君の証人として神谷暢、呼び出された」「草野心平君、ヤキトリ屋……」「岡本潤君、平凡社にいる」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」

10月
『クロポトキンを中心にした芸術の研究』第三号1932.10
詩 鈴木致市、秋田芝夫、伊藤和、竹内てる代
1933年秋、群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流があった吉本孝一が渓文社で働き始める。

 吉本は42年日立亀有工場時代、竹内の著作日『灯をかかぐ』を仲間たちにも薦める。(「日立亀有工場時代の吉本孝一」秋葉啓
『吉本孝一詩集』収録、1991年12月発行、寺島珠雄編、「吉本孝一詩集刊行会」刊) 

 1934年には渓文社の活動は止むが竹内の詩作活動、童話執筆は続く。 

断片58
子供よ/俺達は黙つてお前のふくらんだ目のあかいぶよぶよの/顔を見乍ら暖めてゐる/厳寒の底におれ達は春のやうに燃えてゐる/膝の上にお前達を両手で抱き擁へてゐる/眠らない俺達は何を見つめてゐるのであるか/俺達は飢ゑにも弾圧にも生命がけな今日を通してゐるのだ/勿論 おれ達は名も無い/よし死んでも殺されても棺の上に剣も帽子も勲章も乗らない/また旗で巻かれる事も新聞に書かれる事もあるまい/毛のついた帽子 腰にサーベルを光らせた者共より懺悔と悪名とを受けるだろう/だが黙々たる俺達の無名はそれを笑ひとばすだらう
子供よ今日 我々はお前を抱いたまま何よりも強い慈母となり不退転の勇士になつてゐる/今日の道は必ず明日へつづく。

恭ちゃんの死 1938.12.25 『上毛新聞』  小林定冶

 萩原恭次郎氏が死んで早くも一ヶ月になる。淋しさが一層増して来た。あの当時は私には恭ちゃんの死をピンと感じられなかった、幸か不幸か恭ちゃんの死の枕頭に友人としては私がたつた一人であつた。…
 …それから十八日には東京の友人によつて新宿武蔵野会館隣の翼亭で追悼会が開かれた…
 先づ恭ちゃんが一年以上も胃潰瘍に似た病気を病み続けて好きな酒を殆ど飲まなかったこと、その挙句死んだ月の十一月はじめから神経痛を病み以来床に臥せったままであったこと、それから二週間もしてだいぶ悪くなって来たことなどを話した、だがまだその頃われわれの間ではまさか神経痛で死ぬなどとは誰一人思っていなかったこと、その中に見舞いに行った人達の話で段々悪くなって行くのを知って、これはいかんと廿一日夜八時半ごろ仕事を済ませて見舞いに行ったこと、その時既に弟の恒巳さんの血百グラムを輸血した直後で、四人の医師が立ち寄っていたこと、土間で呆然としていた私が奥さんに招かれて枕辺に座った時私は一層これはいかんと思った既に顔色は蒼白となり呼吸困難で医師の顔にもあきらめを見た、……
 それから四時間後の廿二日午前零時十五分ごろ左手に奥さんと長男宏一君の手を、右手に私と次男の手を握りしめたまま静かに死んで行ったことなどを語った、病名は溶血性貧血というのであったが四人の医師がそれを決定するまで相当頭を悩ましたらしいこと……

 出席者は石川三四郎老をはじめ新居格、中西悟堂、高橋信吉、北川冬彦、岡本潤、草野心平、伊藤信吉、横地尚、金井新作、
壺井繁治、局清、その他の人々で三十余名、萩原朔太郎さんや福田正夫は病気で出られないと手紙をくれた。……(師走二十二日)

静かなる片言 吉本孝一                   
──故萩原恭次郎ヘ──

大きな青い流れに沿って
監獄のある街であった。……

「ジェルミナール」のスウバリユーヌの好きな人であった。

長い髪。蒼白い頬。冷たい眼鏡の底に光る眼。高い背。たくましい肩。
しかし、スウバリユーヌに似てなぜか寂しかった人よ。

底に真赤な葉鶏頭も咲き、鶏が餌をあさってゐる。
藁屋根の下の書斎で、
わたしは人生の愛することと愛されることをそこで始めて学んだ。

酒を飲むことや女を買ふことも教えてくれたが、
真に倫理的にして社会的なる情熱を教へてくれた友よ。

上州の風は寒く、
激して利根の大橋をステッキもて叩いた夜。

酔って唄った寂しさも、
あのころのわたしは若く、ほんとに理解してゐたらうか?

げんげ咲く春の野みちを子供をつれて散歩しながら、
あなたはあれを唄ひたいと言った。
そこにある県下一の製絲工場。
その生理と病理を。

その工場よりも大きいこゝの工場の塀の下を歩きながら、
わたしは時々その遠い日のことを思ひ出す。


竹内の萩原追悼の詩「木いちご」



竹内てるよに就いて  萩原恭次郎 
 竹内てるよに就いて──竹内君から話があった。 
 僕はぼく等に対して、何等関係を持たぬ話はやりたくない。関係のある限りは幾らでも語りたい。竹内君一人のみに限った話ではない。万事バンタンである。 
 竹内君に対しては現在に至るまでも、相当の話題となるべき材料があるので、小さな会合から講演会に於てまで語った事がある。彼女の辿つて来た道は、よくわれわれの行く道の上に正しい足跡を、現実の面に於て示して来たからである。……… 
 竹内てるよが今後生きる道は、一プロレタアとしてわれわれ万人に通ずる道を辿る事に終始するであろう。彼女は貧しくとも病むとも、最も深く手を握り合った人々の中に、一個人として、また社会人として真なる勝利者として、その苦闘をよろこびに代へて生きるであらう。 
 彼女の最近の一つの詩(『盆地』第二号所載)を引かう。 
てるよと云う名はいつも 
不幸のどん底にのみつらなった名であった 
無心状や遺書や借金の申しわけや 
かつて親子自殺者の名として新聞の三面にのるべき名であつた 
(中略) 
戦ひのためにやつらに送る 
全世界なる私達の血書 
そのはしにこそ死をもつてつらなる名前であれ。 
と歌つている。詩として、在来の感覚のみを主として詩の立場から論ぜられる場合、この言葉は詩と云はれないかも知れぬ。然し、これらの強い意識的な文字も、われわれは立派な詩の一つとして数へる事が出来る。とも角、詩人としても彼女は愛され得るに足る詩人である。 


 ここからは引用
秋山 ………… ところで渓文社はたった二人だけ、ということじゃないんだろ。   
神谷 六郷のときは難波君というのがやってくれた。赤堤に移ってすぐ、高崎から吉本孝一ってのが来てくれた。内気なようなやつで、仕事のないときは「赤城の子守歌」ばかりうたってたよ。それから国鉄渋谷駅の改札口にいた木村秀夫が止めて来ていっしょになった。いや、それより前だが、一時西山勇太郎の家に印刷機械を置いて、そこに通った時期がある。恭次郎の第二詩集『断片』はそこで刷ったんだ。活字は家で組んで、刷るために通ったんだ。   
秋山 赤堤にいち度、植村と寄ったことがある。家の中に活字が並べてあった。 ……… 
神谷 西山勇太郎は渓文社の大シンパだよ。恭次郎の『断片』も彼のところで刷った。 
赤堤で知り合った天理教の家の一遇に機械を移してからも金の工面や何かよくやってくれた。 …… 
秋山 …… ところで渓文社はいつまでやったのかね。   
神谷 昭和9年、フランシスコ・フェレルの『近代学校』。あれが最後打。差し押さえに来て持ってかれた。 発禁になってさ。今はどこにもないだろう。   
秋山 オレがもってるよ、見せようか。 …… これだろう。   
神谷 昭和 9年5月20日発行になってる、訳者は渡辺栄介、これ遠藤斌だよ。 


『低人雑記』
首夏、六月ともなると、けふの額に頚に手に、全身的にといへる位ゐに汗が滲み出る、うだるような蒸暑さにはほとほとまいってしまったが、夜業が終へ九時過ぎにもなると、だいぶしのぎよくなってきた。わたしは、いま、座蒲団の上に腹這ひになってゐる。右側には泡盛の入ったビール瓶が二本ぶったってあり、わちしはグラスでアワをちびりちびりやってゐるのだ。紙屑とタバコの灰と新聞紙と万年床と本と埃と乱雑極まる部屋(流石の辻潤氏も閉口頓首されて、辻氏自身が掃除をしようとされたので、それを断るに骨折った思ひ出があり、ガサに来た特高氏があまりの物凄さに茫然として足を踏み入れるを亡失したことがある。実に因縁、故事来歴のある部屋なのである)から退去したのは五月中旬であった。この新しい部屋に居て考へてみるに、障子は破れ、天井からは煤がたれさがり、ところどころにある蜘蛛の巣には虫の死骸がぶ゜らさがってゐ、このところ二ヶ年ばかり箒を入れたことがない、埃とゴミと綿屑とが氾濫してゐる部屋の中で、空気を吸ふてゐたわたしは実に心臓がない位ゐなものであった、と思ふてゐるのだ。

寺島珠雄編
(2)『無風帯』西山勇太郎と吉田欣一
 この『無風帯』は東京発行、不定期の薄い個人誌で、戦中にはあったそれを失って久しいが多くても三十二頁、そんなものだった。編集発行は西山勇太郎。
 私は西山勇太郎に深く恩恵を受けた一人なのである。西山は一九〇七年(明治四十)、吉田は一九一五年(大正四)、私は一九二五年(大正十四)となる。そして私が西山を知ったのは一九四〇年、西山がやはり個人誌で、これは自筆ガリ版による『色即是空』を創刊して間もなくであった。そして『色即是空』は吉田作品二編を掲載した『無風帯』の後継誌なのだった。西山は 吉田作品「生活」を載せた『無風帯』第6輯は一九三五年十月発行だが、次の第七輯は一九三七年五月発行である。不定期とはいえ約一年半の間隔が置かれたのは理由あってのことだった。
 一九三五年十一月に存在が発覚してアナキストの総検挙となった無政府共産党事件、およびその波及から別個に追求された農村青年者事件であり。ともに治安維持法違反等。太平洋戦争直後の一九四六年二月、アナキスト連盟の準備活動が朝日新聞に出た時、誌上の近藤憲二、岩佐朔太郎、植村諦、岡本潤、秋山清、二見敏雄の名について、西山は私たちの雑誌『ぶらつく』3号にこう書いた。

 「自分にとっては実になつかしい人たちの名をあげて(朝日新聞)報じています。(略)老人!岩佐作太郎氏には自伝「痴人の繰言」を自分は『無風帯』に寄稿願ったことがありましたが、それも第二回だけで中断したのでした。しかし、今でもあの当時の自分の<考え>を変更しては居りません。これ等の人達に、<黒色事件(昭和十年十一月)以後、自分はお目にかかってはゐませんでした」黒色事件とは無政府共産党事件のことで、西山は党に無関係だが検挙された。さらに農村青年者事件では、後に下獄させられた幹部のうち数人と西山は親交していた。 
 長々と引用してまで私が言いたいのは、西山勇太郎という人物がいささか異色ながらまぎれもないアナキスだったこと。そのゆえの検挙で『無風帯』が吉田作品「生活」掲載第六輯(検挙一ヶ月前の発行)をもって休刊状態に入ったことである。

 事実、無政府共産党・農村青年社の両事件によって、当時アナキズム系文学の全国機関誌の観があった月刊『文学通信』をはじめ『詩行動』『反対』の雑誌はすべて消滅した。西山の『無風帯』もそうした範疇にあったので、極く近い過去に詩を二回発表している吉田にしても、それを口実とする検挙があっても不思議ではなかったのである。中部地方の詩人で検挙されたのは浅野紀美夫、ほかに『豊橋文学』関係の数人がやられた。
 
 ところで『無風帯』だが、約一年半を消滅同然に休刊したあと、一九三七年五月に終刊第七輯を出している。息をひそめていたのがまだ生きていると頭をあげ、これで死ぬぞと宣言した感じの終刊である。そして終刊には辻潤特集を組んだ。西山をいささか異色という一つは、アナキズムに近縁する面は見られてもまったく運動にかかわらなかったスティルネリアン辻潤を一方の師として一ヶ月も西山の部屋に滞在している。

 西山の部屋と書くのは、小学校卒業で木村鉄工場の徒弟奉公に入った西山が大患ゆえに事務員に転じたのちも独自の住込みをつづけたからで一九六七年に長野市で死ぬ十年ほど前まで西山は木村鉄工場住込み独身生活だった。

 私もその部屋に何度か行き、辻潤のいた部屋を見回し、手動印刷機を置いて萩原恭次郎詩集『断片』を刷った部屋と溜め息をしたのであった。住込みだから西山は木村鉄工場から三食の賄いを受ける。その賄いの食数をもちろん自分負担で増やして、滞在する辻、萩原詩集の印刷に毎日やってくる渓文社の神谷暢などを援けたのである。新宿のやきとり屋時代の草野心平も木村鉄工場の賄いを食した。

 西山勇太郎の異色ぶりを説きすぎている自覚はあるが、そういう人物と吉田欣一が、たとえ一時にもせよ、結びついていたことの不思議、おもしろさを考えるとこうなってしまうのだ。しかしもうやめねばならない。

 今私がはなはだ残念なのは、吉田の『わが射程』が出たあとで、この話題、西山編集発行『無風帯』に吉田作品二編がなぜあったのかを秋山清との間に持ち出さなかったことだ。詩論集会に私は欠席したが、自分一個の興味でいえば、詩は自分のために書くという自然のりを蝶々するよりも、そんなところの会話をしたかった。私のうっかりで、生前、元気な秋山に(岡本潤にも)西山・吉田の話をしなかったことを悔いている。

 その秋山が西山勇太郎を語った短い引用をして終わりとしよう。

神谷暢との対談(ききがき『渓文社』)の秋山発言の一部である。
「(西山は)代償をちっとも求めずに頼めば何でもしてくれたね」

 西山勇太郎、一九〇七年東京生れ、一九六七年長野で死去。著書『低人雑記』
一九三九年無風帯社刊。個人誌『無風帯』全七冊『色即是空』全十冊。ほかに戦後版『無風帯』および『無風帯社ニュース』。編集に高村光太郎『赤城画帖』一九五六年龍星閣刊。


 2011年6月17日メモとして追記
『ぼうふらのうた』大木一冶  寺島珠雄事務所復刻

「歪んだ自画像  西山勇太郎さんえ」
が収載されている