1927年8月 萩原恭次郎、サッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となる

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1927年8月
文芸解放社、萩原恭次郎はサッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となり、23日築地小劇
場で抗議演説を行い米国大使館に押しかけ石川三四郎、新居格らと検束留置

同志に送る ヂオヴァニツチ 草野心平 訳

おれたちの愛が生きる戦ひを耐え忍ぶ間
おれの遺志の中の君が強い間
君の信念の中のおれが純血なあひだ
違ふ? すすり泣きや小唄ではない

二人が泣かなければならない時でも
おれたちは懐疑や絶望を知らない
幸福がおれたちの決勝ではない
行きつくまでの道程がおれたちのゴールだ

おれたちがやつてる事を仕損つて
再びそれを仕遂げる事が出来なくつても
そして侮られ疵つき死にかけても
おれたちは頑張るだらう 信ずるだらう

嵐の夜の後の
日の出はいつもより眩しいのだ
そして何もかも無くしてしまつても
君とおれと「夢」は残るだらう

全世界がおれだちに逆流しても
おれだちの瓦解が拍手されても
神の名によつて僧主共がおれだちを呪はふとも
人道の名にかくれて馬鹿共がおれたちを呪ふ


古い同志のすべてをおれだちが失はふと
おれだちの友のすべてが悪漢にならうと
そして首切りの赤いワナを引つ張らうと
おれだちを埋める墓を掘り手伝はうと

しかもおれは君に告げる
人間も絞首台も牢獄も
天国や地獄の力も
君と僕、おれだちをブチ敗かすことは出来ないだらう

(アルチュロ・ヂオヴァニツチはサツコやヴアンゼツチとアメリカに移民運動をおこした人です。)

掲載紙『自由連合新聞』二七号 二八年九月

サッコ、ヴァンゼッチ追悼演説会、二日一時(芝青年団会館で)
「私の死を諸君の深い流れの一滴にでも役立たしてくれ」サッコ

「私のこころは同志への愛情で満ち溢れている」ヴァンゼッチ

詩 [同志に送る] ヂオヴァニッチ 草野心平訳


 アナキズム文献に掲載されたサッコ、ヴァンゼッチ関連記事 作成futei


『祖国と自由!』VOL.3 no.1 一九二七 September

サツコヴアンゼツチ両君の死を悼む

銘記せよ!! 一九二七・八・二三・サツコ・ヴアンゼツチ・は電気死刑にされた!

「噫! 吾等が同志ニコラ・サツコ及びバルトロメオ・ヴアンゼツチは逝きぬ。無政府主義者の闘士なりしが為に、彼等米国ブルヂヨアー支配階級の魔手に掛り、七年四ヶ月の牢獄生活に続いて一九二七年八月廿三日、米国マサチュセッツ洲デットハムに於て電気椅子に倒れぬ。

 

電気椅子に坐る迄 両君に関する世界の反響

一九二〇・五・五 同志サツコ、ヴアンゼツチ両君逮捕さる。

一九二〇・七・一四 米国マサチユセツツ洲デツトハムに於て、強盗殺人罪により両君死刑の判決を受く。

一九二七年四月 ドイツ、マグデブルグに於て無政府主義者大会開催され、両君救命委員会を組織す。基金五〇万円。

七・三一 全国黒色青年連盟は在日本各無産者団体と共に、国際弾圧防衛委員会を設立なし、以後各地各所で抗議運動を起す事となれり。

八・六 ニユーヨーク地下鉄道停車場四ヶ所に爆弾事件あり。死傷者二十一名。

八・七 ボストン、パリ、ロンドン、ミュンヘン、及び米国各地に示威運動あり数名検束さる。

八・九 ストツクホルムの労働者は大会を開催、両君死刑執行に抗議する決議をむなす。

八・二二 ゼネヴアに於て約五千の労働者は両君釈放の示威運動をなし国際連盟本部を襲い建物を破壊す。死者一名。負傷者二十五名。廿五名の主義者警察を襲ひ警察側発砲四名逮捕さる。

ロンドンの中心地、地下鉄道オールドウエツチ停車場にて爆弾五、六発爆発す。ニユーヨークの労働者十四万五千人は同情罷業を行ふ。

パリにて一千のタクシー運転手怠業し、仏国各地に同情罷業起る。

八・一〇 死刑八月二二日延期す。サクラメント劇場爆破された。損害五十万弗。

八・一一 サクラメントの加洲政庁の建物に数回の爆発起り、爆発後火災となる。消防夫三名負傷。損害約四十万弗。

ブルガリアの首府ソフイア駐在米国領事館に爆弾投じたる者あり死傷者なし。

八・二〇 パリ郊外で両君死刑反対の大会が二十個所開催された。

八・二二 ロンドンにて約一千名の同情運動者に深夜バツキンガム宮殿及びセント・ゼームス宮殿に向かつて助命示威運動を試みた。

ドイツに於て数千の群集が死刑反対の示威運動を行ひ警官と衝突し四時間の乱闘を継続す。死傷者多数。約百名検束された。

八・二三 両君、死刑にさる。

 

 

ニコライ・サツコ

 彼は伊太利のトレマギイオールと云ふ美しい町の資産家に生れた。彼が渡米したのは十七歳の時だつた。二年間は不熟労働者として転々と職を変へた。其後靴工となり、ニューイングランドに於て優れた熟練工の一人に加へられた。八年間は真面目にミルフォード靴会社で働いた。彼の持つ非戦論の為め一時メキシコに隠れたが、妻子を思ふ余り四ヶ月して帰米した。彼は模範的な家庭の主としてマサチュセッツの伊太利人居住地の名物となつてゐた。彼は朝早く床を離れ、庭の手入をして草花をいぢり、一日中工場で働いて変えると、彼はささやかな家庭団欒を味ふのである。彼は講演や罷業の会合に出席したり、種々無政府主義の宣伝に忙しい日を送つた。彼の男の子に偉大なる詩人に因んでダンテと名づけた。第二子は彼が投獄されて時を経ず生れた。彼は故国の母の死去の報知に接し、老いたる父を慰めやうとした。十年間働いて貯蓄した金で妻子を連れて故郷に帰る事にして、旅行券を得へんがためにボストンの伊太利領事館に行った。其後三週間後電車内で逮捕された。

 

バルトロメオ・ヴァンゼツチ

 彼は伊太利ヴイラ・フアルトオの古い家柄に生れた。彼は本質的に詩人であり純情家だつた。常に読書し思索し、又絶へず労働者の教育を忘れなかつた。彼が渡米したのは一九〇八年の不景気のドン底で、労働者は極度の困窮に落入つて居た。彼はニユーヨークの街路を飢えと寒さに震えながら彷徨した。彼は寒さを凌ぐ為に新聞紙を布いて、他人の家の入口で数晩を過した事もあつた。彼は容易に悲惨な移民生活に馴れなかつた。初めて就いた仕事は料理店の皿洗いだつた。彼は其後ニユー・イングランドに行つて数年の間煉瓦製造所と石坑内で働いた。ニユーヨークに再び帰り……後にプリマウスの鋼製造所で働いた。ストライキに於て活動し健康を害したので、彼は伊太利人町で魚売りを始めた。彼は常に労働しながら理想社会の宣伝を怠らなかった。一九二〇年五月五日、サツコと共に逮捕された。彼は云ふ「そして私は私の無名の名を社会改造と人類の解放のためにその身を犠牲にした信仰者の栄あるリストにつけ加へられるのを満足に思つて死につかう」と。

 

『黒色青年』一一号 一九二七年八月

米国法廷に於けるサツコ、ヴアンゼツチ両君の獅子吼を聴け

斯く死刑だけは免れて改めて無期のサツコとヴアンゼツチ

 

『黒色青年』一二号 一九二七年九月

サッコ、ヴァンセッチ問題と其の波動

全世界の視聴を集め、全労働者階級の猛烈な示威を捲き起こしたサッコ、ヴァンセッチ両君の死刑執行は、口惜しくも八月二十三日の夜半、民衆の激怒と陰惨な凝視の中に執行されてしまった。この姑息にして横暴極まる米国政府に対して、たとえサッコ、ヴァンセッチ両君を葬らるるとも、踏み躙られた全世界の民衆はこのまま忘却はしないし、米国政府の弾圧に対する反抗運動は向後も猶猛烈に継続されるであろう。全国の労働者階級諸君! ××と破壊をもって報復したる吾等の祖先の行動を想起せよ。

 

日本

…「サツコとヴアンセツチを救へ」の世界的モツトーの下に、九州、関西、中部、東海、関東、北海道等全国に黒旗を掲ぐる我が黒色青年連盟は、凡ゆる機会凡ゆる場所に火の如き運動を続けて来た。

 本年二月、始めて米国の同志より飛報に接し事件の真相を知り、同月十三日抗議文を携へた連盟員十数名は折柄の風雪を衝いて米国大使館に至り、大使に面会を要求したが不在の為要領を得ず引返した、日を置いて三月十六日、前回にあきたらざりし同志十数名は再挙同大使館に殺到し、急報に依り駆けつけた日比谷署員の為、遂に検束騒ぎ迄も惹起するに至った。

国際的抗議運動の行われた七月三十一日には東京市外碑文谷に於いて、又、八月十一日夜は神田基督教会館に於いて両君の釈放要求演説会を開催し、その間、ビラに、ポスターに、又凡ゆる会合に全国各地に散在する我等黒色青年の抗争は、死刑の日の近づくに従ひ、犬供の圧迫が峻厳になればなる程益々猛烈に続けられて来た。

而して世界的に高まり来つた死刑反対の声にヘキエキした米国特権者共が延期に延期を重ねた最後の日、八月二十一日夜我が黒色青年聯盟他十余団体主催、国際弾圧防衛委員会の名の下に、築地小劇場に於て最後の大演説会が開かれた。

 開会前より殺到した聴衆は正七時司会者が開会の辞を述ぶる頃には既に、場の内外に溢れ、此の勢ひに狼狽した官憲共は、後から後から押し寄せる群衆を追ひ返すに汗だくとなり附近住民の哄笑と反感を買つてゐた。殺気は会堂に満ち、弁士の熱弁と聴衆の意気は火の如く燃え、中止に次ぐ中止、その度毎に演壇横の大道具部屋に犬共の上づつたざわめき。鉄拳は唸り、箱は飛び、黒色の渦は巻く。遂には聴衆席よりも数名の検束者を出すに至つた。

 六十名の予定弁士の中未だ二十名も余してゐたが、弥が上にも高まり行く場内の気勢に逆上した臨官が解散を命ずるらしく見へた刹那、早くも司会者は壇上に飛びあがり「俺達の運動は此の小さい場内のみに終るべきでない、街頭へ…」と叫びながら群がる警官隊に取囲まれるや、熱狂した七百の聴衆は総立ちとなり内外より起る万歳の声と共に「大使館へ、アメリカ大使館へ」と連呼しつつ怒涛の如く溢れ出づるに、血迷つた犬共は逆上自失の末、会場出口に於いて抜剣してマゴマゴする様な醜態をさへも演ずるに至つた。此の夜、昨春の銀座事件にコリゴリした官憲は物々しくも武装せる犬共をもつて銀座街頭を固め、為に一流のカフー商店等は驚愕の余り、未だ宵の九時過ぎなのに大戸を下してさへしたといふ。尚、大使館に押し寄せた一群中からは日比谷書に十数名会場及び場外よりは築地署に二十五名の検束者を出した。……

 

ニューヨーク 

八月六日 地下鉄道停車場に四箇所も爆弾が飛び…

八月九日 ストライキが開始十四万五千の労働者は午前中に作業を止め七十五万人が三十ヶ所に会合し、四万の犬共は装甲自動車と機関銃で万一を用意す

 

ボストン

八月七日 一万の救命運動者は市内各所に集まり…

 

フィラデルヒア エムアミエルの長老派教会に爆弾飛び、ボルチモアにて市長の邸宅が爆破された。

 

リール(フランス) 労働者は米国領事館を取囲む。

 

パリ

八月七日には抗議大示威運動を起し、八日にはフランス全国を通じて二十四時間のゼネラルストライキを決行す。パリ市内にてはその日、タクシーは四分の一以下に減じて、運転手一千名のサボタージュがなされた。二十日の午後は郊外二十ヶ所に大会が開かれ何れも大々的に反抗運動の気勢を挙げ、ル・アーヴルの会場では警官の愚より大衝突を起した。

二十三日には二十五名の一群は警察署を襲撃、発砲し四名就縛され、尚二万の群集は大通りに集合し警官と大衝突し、踊り場、ムーラン、スージュを始め、街上の自動車を破壊し、又、自動車除け柵を街頭に造つた。千九百二十一年のメーデー以来の猛烈さであつたといふ。

 

スエーデン

八月十一日、大示威運動あり、二十三日、ストツクホルムとゴールデンブルグに於いて更に大々的に繰り返された。

南米 ブエノスアイレスにゼネラルストライキあり、爆弾は二ヶ所に飛ぶ。

 

イギリス 

八月十日夜、ロンドンで示威行列があり、二十二日夜は大集団がハイドパークよりアメリカ大使館へ行く途中、バツキンガム宮殿前で犬共の為にさへぎられた。

 

スイス 

八月二十二日国際連盟本部を襲撃し、全部の窓を破壊し米国運送会社事務所、米人自動車車庫等をも破壊した。…

 

ドイツ

数千の群集は警官隊と衝突し、四時間に亘る街上の大乱闘の末百名以上の検束者を見た。

 

全世界の黒旗を動かした此の抗争も効なく、暴虐極まりなき米国政府の狂悪無惨なる恐怖政策の為に、遂にサツコとヴアンゼツチの両君は虐殺された。だが、黒旗は進む。殺されたる同志の血汐に益々黒は輝き尊犠牲の屍を踏み越へて、俺達の日の来る迄、凡ゆる障害物を粉砕すべく俺達の旗黒旗は進む。

 

『自由連合新聞』一五号 二七年八月

サッコ、ヴァンゼッチの死刑は一ヶ月延期

 

『自由連合新聞』一六号 二七年九月

全世界を挙げてサッコ、ヴァンゼッチ釈放要求運動

自由連合の抗議運動も空し 遂に死刑は執行さる

 

『自由連合新聞』一七号 二七年一〇月

関西自由連合、定期例会 八月二五日

同志サッコ、ヴァンゼッチ二君の救命運動に関する経過報告

大阪機械技工組合、定期例会 八月二五日

同志サッコ、ヴァンゼッチ両君の釈放運動に関する経過報告

関東自由連合、緊急協議会 八月二六日

サッコ、ヴァンゼッチ問題の善後策、同じく経費の許す限り演説会開催の事

江東自由労働者組合、定期例会 九月三日

サッコ、ヴァンゼッチ死刑に対する抗議運動の経過及其後の対策

 

『自由連合新聞』一八号 二七年一一月

関西紡織労働組合、定期例会 一〇月一日

サッコ、ヴァンゼッチ両君の死刑執行に於ける感想、

旭川純労働組合、八月一五日 臨時協議会

サッコ、ヴァンゼッチ両君の釈放運動に関する件

八月二一日サッコ、ヴァンゼッチ両君釈放運動、ビラ撒ポスター貼をなす

 

『自由連合新聞』二二号 二八年三月

全国労働組合自由連合会第二回大会提出議案

アメリカ製品ボイコットの件(大阪印刷工組合)…同志サッコ、ヴァンゼッチ両君を暴力にて電気死刑台に上せし米国政府を糾弾し及同国製産品の不買同盟を決議す。

 

『自由連合新聞』二七号 二八年九月

サッコ、ヴァンゼッチ追悼演説会、二日一時(芝青年団会館で)

「私の死を諸君の深い流れの一滴にでも役立たしてくれ」サッコ

「私のこころは同志への愛情で満ち溢れている」ヴァンゼッチ

詩 [同志に送る] ヂオヴァニッチ 草野心平訳

(アルチュロ・ヂオヴァニッチはサッコやヴァンゼッチとアメリカに移民運動をおこした人です)

 

『自由連合新聞』二八号 二八年一〇月

警察網を完備し恐怖政策を強行、集会禁止、理由なしに監禁全土に弾圧加はる、追悼集会も開会直ちに解散、滑稽な銀座の警戒ぶり、サッコ、ヴァンゼッチ追悼演説会

 

『自由連合新聞』三〇号 二八年一二月

果然、ヴァンゼッチは冤罪であった 故意に死刑にしたのだと真犯人が立証する

 

『自由連合新聞』三七号 二九年七月

電気椅子で死刑にされたサッコ、ヴァンゼッチの記念日を再び起って三人の同志を救へ!

 

『黒色戦線』二九年七月号

勇敢な婦人ローザ・サツコ

 

『自由連合新聞』三八号 二九年八月

想起せよ! 虐殺された同志を=サツコの手紙

 

『黒色戦線』二九年八月号

詩「サッコとヴァンゼッチ」イスラエル・カスヴアン

三周年を迎へて サッコ・ヴァンゼッチを想起せよ! 事件の真相

 

『自由連合新聞』四九号 三〇年七月

牢記せよ サッコ、ヴァンゼッチの死を無駄にするな!

ドル資本の手先に無実の罪で殺されたのだ

 

  

深沼火魯胤と萩原恭次郎

深沼記事 のコピー
萩原恭次郎自伝的随筆 

…ある時は鉄工所へ行った。


ある時は畑へ鋤鍬をもって出掛けた。




ある時は秘密結社的存在をつくった。

諏訪町の長岡屋と云うそば屋の二階に


よく集った。


僕等の周囲には社会主義的人物は

一人もなかったので、


幼稚ながら議論が戦わされると共に、


熱っぽい感情に強く支持されていた。

 

赤十字の雇に入った。


六ヶ月ばっかで止めた。

 

 この頃、非常な興味をもって、


友人の新聞記者の家へ行って


通信記事や新聞記事を
手伝った。


農村運動を起すのが、我々の希望だった。


萩原朔太郎氏にもこの頃よく逢わした。


その後同氏にすすめられて、


文学の研究会を開いた事があった。


この時の氏は誰が欠席しても


氏は欠席しなかった。


黒化社の、深沼火魯胤君も


やはり同市で新聞記者をしていたので、



互いに親しく成り初めた。


僕はこれらの間に愚劣な



詩を書いていた。


学校を断念した代りに、



いわゆる二十才的勢力で

手当たり次第本をあさり読んだ今、

東朝の記者をしている


山崎晴治氏など先輩として

読書会もつくられた。


僕は極端にこの頃無口で

づい分したしい人の前でないと


口をきかなかった。

喋ると語調が激したようになるので、

一層無口でいた。


今思えば、二十才頃、何が
 

自分にあったろう。


思い出そうとしたって何もある道理はない。



すべては毛のはえかからんとした


二十才の頃の

                体臭のようなごっちゃな、


    むし暑くむんむんしていた


         頃だった。…



深沼詩上毛新聞 のコピー
 

<虚無の火焙り>

 

夢をみたものだ

女が男を殺す夢をだ

それからそれから

ブルジョアの悔恨が

虚無を生かすのだろう ホホヽヽヽ

虚無の悔恨が

ブルジョアを生かすのではないの?

馬鹿なことを!

糞でも喰ヘツ  

 噴火口の上に  

 爆弾を抱いて立つ俺達

女に棄てられたつて

何を畜生!

口惜しくないぞ

針のさきでちょつとでも

ちよつぴりでも突ッついてみろ

ホホヽヽヽ

天に冲する血が遼る

毒血が狂奔するんでせう

ろくでもないあまつちよ奴

ブルジヨアの臀肉を削ぐ  

 血刀を振りまわし  

 飢餓軍の鬨の聲とヾろく

太陽を

引きずり下して

眞ッ暗闇にするか

盲滅法に突貫すねのはいヽ

キヨンキヨンするなよ痩せ犬

ホホヽヽヽ

ゴミ箱でも漁りたいの

パン屑を──ホーろ

間抜けたことをするない

ゲラ、ゲラ、ゲラ、ウープ  

 わが親愛なる飢餓軍  

 肋骨、爆發、××

悲鳴

叫喚

火薬の臭ひ

××の土偶の棒が

光るものを抜いて来たわい

ホホヽヽヽ

お生憎様

隠れ場所なんかありやしないわ

勝手にまごつきやがれ

ついでだ──お前もか………  

 ヤー同志よ

俺達の心臓の火焙りだ

深沼詩日本帝国の激怒
 

<日本帝国の激怒 >  

■は発表紙において活字が潰された箇所

 

■■を火葬にして

粉んなれ粉んなれ

■■! ■■! ■■!

大理石造りの便所に

たれ固めた

二千五百七十三年の

■■■■■■■■■■■

この糞こそは

愛國の薬だぞ

恐ろしいウヂ蟲がわく

■■■■■■■!

■■■■■■!

死んだ!

くたばった

何を き損ないの

無産者の死肉まで喰ふ

汚されるケダモノ奴

憲法

民刑法

犯罪

無産者泣かせのコリヤ

無産者虐殺

公判

懲役

監獄

まるでアベコベだぞ

■■■

アゾヒスムスだ

火葬は要らぬ

■■■への突貫

■■の一齋■■■ でいヽ

刃物も要らぬ

■■■■■■■間抜けづら

夜も寝ず

大ビラで酒を飲めず

女も買えず

■■の手淫病者は

■■

■■■のアゾヒスムス


伊藤和「俺は檻の中にしばらく居る」『クロポトキンを中心とした藝術の研究』第一號1932年6月 

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竹内てるよ詩集『花とまごころ』1932年 原本画像

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春の糸挽歌 『萩原恭次郎詩集』

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枇杷の花が咲けば冬が来て春が来る

彼女製絲女工 前山フサ子は

(四肢健全にして森の中から生れたやうな肉軆をしてゐるが)

口紅の唇をまげて、居酒屋の二階に馬鹿の如く正座して酒を飲み

氷結せる天から

限り無く雪は青く冴えて地上へ積らんとしてゐる

工場區域の機械を藏してゐる新しい屋根屋根

勢多會館の割立つた面

比刀根橋の石造りの孤線

交水製絲の黒塀 活動館の圓屋根

  廣瀬川は雪足を青く吸って

  街の中央を流れ

冷たい大きな瞳でぢつとそれを見つめてゐるのである

電鐵の踏切りを 車は轟と過ぎはきだめの山は雪の下に

 (錆び釘や毛や……)

埋もれてしまつた麥畑と

工場寄宿舎と大煙突の下を曲れば

佐久間川は

各工場から吐き出される湯氣のため濠々たる白煙をふき上げてゐる

その蛹臭い匂ひを嗅ぎ乍ら

彼女は降雪の中に立つて

派手な羽織に白く雪を吹きつけて

懐しい仕事の匂ひを嗅いだのである

前橋の花柳病院から工場へ

藥瓶が届けられることは不名譽の事か當然の事か知らないけれ共 そのため彼女は二年間 鉛臭い白粉の女として生活した

今や 彼女はそれを脱走して来たのだ

昔の職業のみを職業と目ざして

工場の外で給料を借りに来た見知らぬ娘の父親と

お斷りを食つて出て來た彼女とぶつつき合つたので

實は雪だるまで立つてゐる老人と二人 この酒屋の二階に上つて酒を飮んだのであつた

古く寒く一人ぼつちの山の家(こゝから遠い)

爐邊 老婆と子供 燒いて食べてゐるきびの燒もち

町からのたとひ一枚の繪紙でも土産に待つてゐるのに無能に何一つなく歸る父親は

なだれる雪にはぢきとばされて崖に落ちねばよいが

自分の昔の姿も思ひ出されるので彼女は

その老人に酒をのませて歸したのであつた。

彼女は休むためめし屋に上つてあたゝかいうどんかけをあつらへる女中は誂へもせぬ徳利をはこぶ

一杯飮んで一杯彼女に差して下へ行く

彼女はやがてあぐらをかき

汚點だらけな茶ぶ臺 汚れてゐる火鉢に寄りかゝり髪毛をかき上げ乍ら酒を飮む

默るつて一人で飮む

終業の汽笛が鳴る

あちら こちらから

太く 高く

威壓的に

元ゐた○○工場の笛も鳴つてゐる

一日のよろこびの汽笛が鳴るのだ

このよろこびは 人と仕事をする者ののみよりわからない、仲間の無數の顔

 熱湯に煮へ乍ら何千と云ふ瀧のやうに糸枠に巻かれてゆく白い生糸

 浴場のお喋り 寄宿舎

 そこにも煮繭の匂ひがただよつてゐる、

 (男と二人だけで草汁の匂ひを嗅ぎながら

  夏の月夜の川邊で初めて言葉を交した夜)

ぞろぞろと歸る 街にひびく女工の聲、何百と云ふ下駄の音

この中に昔の仲間はゐても肩に手を掛け

乳房が大きくなつた話や

抜毛する話や

鹽鮭を貧しい弟達に買つてやつて泣かされた話や

南京豆でトロツコ遊びをやつた正月や

故郷へ五十圓の金を送つた夜の楽しい夢やを語る仲間はゐない

冗談にも一つの布團に寝ようかと云ふ仲間はゐない

見渡す限りの家々

寝せて呉れと云へさうな疊一疊もある家は見當らない

然しどつかに誰か一人位ひゐるやうな氣がする

幾つもの工場

頭腦も肺臓もめちやめちやに疲れ

(寂しいなあ 寂しいなあ)

身體中からさういふ聲がきこえて來るのに

哀しい二つの眼をしてまだ負けないで聞き歩いてゐる

彼女はある男達を思ひついて訪ねて行つた。

彼等は雪見酒を飮んでゐた

「まあ上れ

酒を飮まんか」

彼女は身ぶるひし

問答無用!

昔も今も同じの人間

チツクをつけた頭でもなでてゐ給へ

髭でもひねつてゐたまへ

ここで酒を飮んだらもう地獄の一丁目だ

歸つては來られない

彼女は知つてゐるのだ さうゆう男はゐないことを

また酒をあふり おけさを歌つた

夕暮れは次第に寒氣を増す

雪は小降りになる

彼女はまた歩き出す

男に逢ひたくなる 然し途中で止めてしまつた

職業がないといふ事實がこの世の中にある

何んといふ侮蔑!

笑ひはどんな苦しみの中からも湧くが

職業がなくては笑へもせぬ待つてゐる天上にある死神がつくつた布團

しかしもう春先を待つてゐる

赤い屋根の家

ひくい家

重なり合つてゐる家

ここに自由に寝せてくれる疊 一疊もないのか

寝ろ!

飯を食へ 山の木々を押しわけて杖を握つて神様でも出て來い

どなりつけるやうな頼母しい言葉はないものか

さうした弱い心になつてはならぬのだ

さうゆう救ひのある世界は神の白い白い純白の世界か

せめて酒のしづくを泌ませ

昔の思ひ出におけさを歌へ

寒氣は深く

木々は凍みて曲り

雪は小降りとなる

何故か未だ逢つた事のない知らない男に逢ひたくなる。

愛のかけらでも今は欲しい

身體中を死神が押へつけてゐるのだ

それから逃れたい

然し凍てついた世界の上をも

笑つて 自分一人だけでも笑つて 誰にも知られなくとも

ともかく笑つて行かう

職業ある者は幸ひだ

あなた達には棲家がある

彼女は歩いてゆく

電車線路も雪に見えないが、それを横切り 坂を上り

知事官舎の側から公園に出て 空の月を仰ぎながら人造繊維株式會社の雪を見ながら

利根川べりに立つた

空はさらさらと晴れ

月は河瀬に碎け

しかしもう春先をまつてゐる水気をいつぱい含んでゐる水樽

艶々しい幹は太く月に光つてゐる

彼女はその幹をただしつかりと握つてみた

彼女は水上を眺め

大鐵橋を眺め 夜空に聳ゆる赤城の山を眺め 自分の身體をつくづく眺め

譯のわからぬ聲で歌つた

どこも雪

雪の中に突き立つてゐる木立

眞白の雪の原に立つてゐる女

その中ではるか崖下の流れだけが彼女を呼び下してゐるやうであるが

彼女は歌をうたつてゐる

しづかに無心で歌をうたつてゐる

醉つた頭の中で、よろこびの反極から悲しみの反極へ振子のやうにゆれる思ひが歌つてゐる

そしてその歌は何時の間にか彼女の職場の糸挽歌を歌つてゐるのであつた

彼女の愛はその糸挽歌であつた









『クロポトキンを中心とした藝術の研究』第一號1932年6月 謄写版刷原本複写画像

一号表紙第一号扉


『クロポトキンを中心にした芸術の研究』萩原恭次郎 前橋市外上石倉自家版、謄写印刷 
第一号 1932.6 
詩 伊藤和(<馬事件>で投獄された経験を表現)、吉本生、小林定治、萩原恭次郎「もうろくづきん」 
評論 小野十三郎「作家と民衆との接触に関するクロポトキン並びに我々の見解」、坂本七郎「芸術の社会性の研究」 
消息記事 「千葉県に於ける雑誌『馬』の同人である両君の秘密出版、不敬事件。伊藤和君、懲役 2 年( 4 ヶ年間執行猶予)。田村栄君、懲役 3 年(東京衛戍監獄)。伊藤君の証人として萩原恭次郎、田村栄君の証人として神谷暢、呼び出された」「草野心平君、ヤキトリ屋 …… 」「岡本潤君、平凡社にいる」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」「植村諦君、放浪中、詩集出版」「小林定治君、失業 …… 」「南小路薫君、馘首、失業中」 



一号吉本
一号奥付

坂本七郎「第一夕暮れの詩」全文+初出誌画像

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<第一夕暮の詩>

彼が好むやうにおれもまた好むのではない

「煙と鐡」の詩人が市俄古で愛した赤銅色の夕暮が

此處にも流れてゐるから歌ふのではない

おれは煤煙の故にではなく

煤煙の中に生きてゆく故に八王子子安町を愛する

汽關庫と操車場と

刑務所と屠殺所と

古い紐育スタンダート石油會社出張所倉庫と

繭乾燥所と

西へ神奈川縣横濱への道路と

ぼろほろなそれらをこの町は持つ

そしてそれらが呼吸するために生きる

ぼろぼろな子安町が今や暮れてゆく夕暮に

おれは貧乏な友達からの手紙を讀む

窓を閉ぢもう一度開け空を見てから閉ぢる

已に薄暗くなつた外へ出る

むれ蚊のやうに天へ向つて喚く子供

我鳴つてゐる女達

しかも風はこの狭い町裏へも容捨なく吹き込む

「下水問題及び屠殺場移轉反對」のビラを剥がす

しかもビラは追ひかけてゆく野良犬によつて引裂かれる

しかもおれは委細お構ひなしに歩く

踏切を越えて街へゆく

銀行や會社や市廰や郵便局やガタガタ走つて行く「乘合」の街へ

それから歩き乍ら肩をあげておれは怒鳴る

「東京のゴロツキ ! 」

また子安町の夕暮に

くたびれたおれは夕刊を讀む

石油のにほひは一層おれを刺激する

孤獨といふことに就てはフイリツプも言つてゐたやうだ

彼が小説に書いた造化工の娘は淫売になつて病院へ入つてからどうなつたらうか

だがおれはそれより八王子の娘達に就て云ほう

警察の風紀係が取締る「誘惑され易い」彼女達に就て

新聞は彼女達を「織姫」の名で呼ぶ

「五千人が解放され羽摶し化粧して出て行つたと報道する」

事実おれは第一日曜の夜に

町に溢れる若い女の群れを見る

活動寫眞館に飲食店に

そしてそれらが再び深夜の道路に吐き出される

渦巻いてながれる

彼女達は始終何かを求める眼付きで落付きのない憂鬱さで

また疲勞のための興奮にざわめき笑ふ

乾いた聲で

彼女達の中の一人が男と蔭れる

數十人が揶揄し拍手して見送る、そしてやがて獣る

公園の夜の廣場の暗さと

町から離れる織物會社への道の暗さと

それゆえに彼女達は再び口をつぐむ

寄宿舎の電燈と壁と

その胸に「明日」がぼんやりと影をつくる

だがおれは板圍ひの粗末な工場の中で

また煉瓦積の頑丈な工場の中で

常に歌ってゐる歌聲をきく

それは時に稍粗暴にまた悲しく

しかしそれは胸を掻きむしる調子ではない

それは拙く平たい流だ

そして五月には彼女達はたゞ生理的にのみ歌つてゐるかのように感じられる

おれは彼女達を不幸とは思はない

おれは晝休の三十分を遊びにゆく彼女達の顔に若葉のかげを見る

その白い工場衣の下に萠えてゐるものを知る

その白つぽい髪にめいめい挿してゐる何かの花の一輪を見る

また規則のきびしいところにゐる者が裏門や柵の所へ行くのを見る

そして其處から外を眺めてゐるのを

また塀によりかゝつてみんなで流行唄をならふのを、大勢で一人の手紙を読むのを──

一人の男がおれに云ふ

「君は彼女達の掌を見たか ?  織機の鐡に把手で固くなつてゐる掌を

それから彼女達が情人に工女であることを隠すために腐心するのを」

だがおれはその男に唾棄する、そして云ふ

「不幸なのは君だ彼女達ではない、けつしてない ! 」

だがおれは一體何を言ったのだらうか

おれは子安町の夕暮れの中にゐて夕暮れの詩を書かうとするのだらうか

詩はここに無い

ここに在るのは俺だ

おれは浮浪人ではない

おれは子安町の裏口に窓を持つ一人だ

おれの胸が子安町の煤煙を呼吸する

おれの眼が子安町の煤煙を見る

米を磨ぐちいさな娘や洗濯するお婆さんや中風病の老人や

よたよたな子供が其處らへ遠慮なしウンコするのやまた酒癖のよくない亭主が女や子供を

 殴りつけるのを見る

だが此處に偽善はない

賤しむべものは賤しむことそれ自體だ

嘲ふものは嗤はれるもの

だからみろ暮れてゆく煙の中の子安町を

暮れてゆく煙の中の子安町に生きるみんなを

おれは黙る

そしておれはまた黙つてけふの夕暮も窓を閉ぢる

窓を閉ぢもう一度開け空を見てから閉ぢる

限りなく愛するもののためにおれは涙ぐまされる

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『死刑宣告』(復刻版画像)

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第一夕暮れの詩


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『第二』5号

『第二』第五号の詩をガリ板で二十頁分書き終へたのは土曜日の夕刻であった。すでに暗くなった窓の外に眼をやって、僕はくたびれた手を休めた。今夜は尾形君の詩集の会があるのだと知っていても一銭も持っていない僕はどうしやうもなかった。きっと行けると思って友達に出したハガキのことも悔まれた。悪いけれど仕方がない僕は本当に行きたかったのだ。行って久しく会わない友の誰れ彼れと会いたかった。さびしかったのでそれより仕事だと思った。午後一時から七時までぶっつづけでガリガリやった。そしてやっと終へた。 

…………草野心平の四号への批評引用 

何よりも理屈よりも僕は今日の自分を信じたい。 
六月八日 


「手紙 ──猪狩満直君におくる」 坂本七郎 

尊い、いそがしい生活の中から『第二』への原稿とお手紙有難う。いま私は暗い雨の夜の、汽車の響きのガタガタの中の、町裏の小さな下宿の部屋で、はるかに、遠い兄を偲んでいます。どんなにかあなたと語りたく思うでしょう!何ものにもまして私共の欲求する、正しい、真実な社会、それは私共小数な集団から、次第に大きく拡がる輪となるものであり、そしてそれはあなたの耕作のための血マメの手で書かれた一篇の詩を通じて、我々数十人の仲間、友達へ、その胸から胸へ火華を散らして燃えゆく一つの導火線となり、また励み合い力付け合う暖い強い愛の言葉として伝わりゆくのであります。まことに私共の詩は、最早単なる詩一個でなくして、我々の生活全体であります。これは何等の誇張なく感ぜられます。……… 


『第二』7号


『第二』六号の、竹内、神谷両君の作品には誰れも打たれました。岡本潤君からは直ぐ手紙が来ました。竹内君の病気はよくありません。「午後から発熱して分からなくなるから、熱の出て来ない内に急いでこれを書いた」と言って寄越したのが七号の詩です。どんなにかくるしいでしょう。私がこの前尋ねた時、自分の仕事が水の分析試験なぞであり種々な劇毒薬を使っていることを話したとき「モルヒネありません?」と聞いた竹内君の顔を私は今も忘れません。ああ然し私は竹内君にそれを送ることを躊躇せずにはいられません。こういうことは本当に私共の心を苦しませることです。 
『南方詩人』の今度は、竹内てるよ号にする相ですが非常にいいことです。彼女の詩集に就いては『学校』六号で草野が二頁書いていますが実に適切な文章で、私は読んで、自分の言いたいことをすっかり言って貰ったときの歓喜にうたれました。尾崎喜八氏も『自由漁支』に批評を書かれるそうです。また懸案になっていたマルチネ抄をいよいよ出版され、それを竹内君のため寄付されるそうです。これは実に感謝すべきです。 
いろいろ書きました。もう今夜は一時に近いようです。信州からの上り列車が、今八王子駅に着いたようです。駅夫の呼声がします。蚊がひどいのと、さすがに少し疲れてきましたから、それではこれで筆を止めます。どうか、元気で働いて下さい。終りに、私の好きなルイ・フィリップの、 
  「人生のすべての事は、情熱をもって体験されねばなりません」 「世界に対しては狂える者の如くに振舞い、何者にもまして友を愛すべきです」 
という二つの言葉を投げます。あなたの親愛な馬そりにどうかよろしく。さようなら。 
(八月十三日) 

  元気ですか。私も元気です。 
  原稿をどうか送ってください。 
  私を、石炭のない汽罐にしてくださいませぬように。 
  この雑誌を、手紙と原稿依頼に代えます。 


『第二』8号


<鐵筆者の辯> 
七号が大変遅れてしまったので、八号は早く出したいという気持と、それより、この数日来私を駆り立てる発火のようなものに私はひどく昂ぶり性急になっていて、じっとしていられません。それで原稿を、ほとんど到着順にコッピイしています。従って編集の点はゼロです。…………… 
それから、今号は、手紙や意見のようなものが頁の半を占めることになると思います。竹内君のものは、題も書かれ、原稿紙に清書してありますのでそのままのせさせて頂きました。………以上。 


<九月二十五日夜 (後記)> 
夜の暗黒がすぐ前面にあります。あらゆる生きるものの悲哀、苦悩、それらを押し包んで静もる闇、そして私は、九月二十五日の夜、きょうまでの仕事の一区切りの小さな安息のひと時を、窓に向った机の、うすぐらい電燈の下で、この後記を書きます。 
このような夜は、孤独をふりきってまっしぐらに駆り立てられる友への熱情を、私はただ震える手で筆に任せるのみです。溢れる親愛の心で、私は友をおもいます。私の、この貧しいささやかな仕事への熱愛も、正しき真実な社会の建設者であるべき、位置せられたる礎石の、鉄の、一個の、真率な魂を抱いて生き闘う友への絶大な友愛に外なりません。__離れていることが何でしょう!私は距離を感じません。もしもあなたが二百里を地図で示すならば、私はお互いの間にそれだけ「なさねばならぬ暮しが在る」事を思いましょう。私はそしてお互いの「点在」を感じません。はっきり結ばれている胸と手を感じます。この、いま私の身体をほてらしているものは何でしょう。私の血です。私は私の血に誓って、なさねばならぬ多くの事を感じます。私は、いまの私の生活、日曜日が安息のために在るというような生き方を恥じます。私は自分を弁解して「方便」だと言います。私はケチな愉悦や物質的な欲求や(欲心や)、単に自分のためだけであるそれ等その他のものを自身に発見せぬでしょうか。少年の頃トルストイを読んで我が喰う麦を作り得るに足る土地の所有をこう定した私は、その単純な●理を、今はどう行って居るでしょうか。……… 

『第二』はようやく、今や私の意図するところに近づきました。あなたの体温、あなたの生活、あなたの胸の鼓動をそのままうつし得たことです。雑誌になるとことではありません。 

今号は多くの方から執筆して頂きました。それで私のプリンティングが少しくたびれたと云うので次号に、小森、金井、湊の諸君の原稿を譲りました。「汽罐」はあまり熱しすぎてプライミングしています。このような愉快はありません。 
次号もなるべく早く、遅くも十月末までに出し度く思います。どうか、原稿をお送り下さい。元気を祈って居ります。 
   千九百貮拾九年十月刊行 「第二」第八号號(非賣) 
   八王子市子安町子安館内坂本七郎 印刷及発行 


『第二』9号

<後記的に>  坂本七郎 
A『詩と生活』の問題に就て 
  略(草野心平とのやりとり) 

B 二つの詩集と五つの雑誌 
  猪狩満直の『移住民』と竹内てるよ君の『叛く』に就いては『第二』なぞで言う必要もなく云っても大した広告にもならないと思うけれど、『叛く』の再版(活字版による)は是非とも実行したいと思う。そしてその売上げ(この言葉はむしろ楽しい)をみんな竹内君の食事や注射代に出来たらどんなにわれわれは本望だろう。猪狩君の『移住民』は驚異以上だ。………『学校』『一千年』『壁』『冬至夏至』『南方詩人』これらの雑誌は今日では味噌や塩のようにわれわれに必要だ。……… 

C 転居その他 
子安町から転居した。上野町七十四松井方。ハガキが買えぬから『第二』九号で転居通知に代えます。ついでといっては失敬だが、芝山群平君が八王子へやって来た。今一緒にいる。彼の仕事場とは木柵の針金だけの近距離だ。がんばると言っている。がんばらしたい。そして『第二』の今度の発行に当っても彼には一方ならぬ面倒をかけた。僕が書き、交代で印刷し、製本し発送するのである。 

D その他 
この「後記的に」は、いきなり原紙へぶつけ書きするので、僕のような文章の拙い人間には非常にやり切れない事なのだが、今夜は雨も降って来たし、役所の(水道事務所)宿直部屋の電灯は実に暗く、時計は十時を報じているのでどうしても性急にさせられる。書きたいことは沢山ある。第一にいつも原稿を送って貰ってもろくなお礼も辺辞も出せない詫び。竹内君の病状の報告。今日来た神谷君からの便りによると、 
   竹内君はこの頃すこしづゝ快い方へ向っている。竹内君も「きっとよくなる」と言っている。歩くけいこをしている。野菜を買いに行った帰り富士を見たので竹内君にその話をしたら『山がみたい』ときかないので、手をひいて土手まで出た、そしたらてるよ君はうれしそうにきよろきよろ見廻して涙ぐんでいた。 

というようなことが書かれてあった。僕は読んでいてつい涙ぐんでしまった。本当にもう一度健康な身体にしたいものだ。 
それから、十号は今年中に出したいと思いますから、どうか書いて下さい。それからあなたの親しい真実なお友達でこの雑誌を見せたいと思う人があったら知らせて下さい。今、丁度六十人の仲間にわけています。いつも一部も残りませんので折角云って来られても送れないことがありましたが、先に云って下さればその分も刷ります。それでは、どうか元気で、くれぐれも御健康で。僕も頑健で仕事し勉強しています。 
一九二九、一一、六 夜記、 


  「第二」  第九号 (非売) 
  発行人 八王子市上野町七十四松井方 
  印刷人  坂本七郎 
  一九二九年十一月十日発行 

 


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『萩原恭次郎詩集』

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萩原恭次郎年譜

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『萩原恭次郎詩集』前田淳一編集、伊藤新吉年譜担当 1940年刊をベースに

★は『萩原恭次郎全集』年譜川浦三四郎編(秋山清、伊藤信吉補足)1980,82年刊、

☆は『萩原恭次郎とその時代』石田幸弘編(『全集』年譜基調)より、

■はKAMEDAが補足。

『詩集』年譜は年代誤認が散見される。後の年譜で異動がある場合は『詩集』事項を( )内に括った。

2003年11月22日


1899.5.23 群馬県南橘村に萩原家の次男として生る

1903 群馬県元総社村の金井ソウに引取られる

1912   前橋中学校に入学

1916.5   文芸雑誌『狐の巣』創刊

1918   中学校を卒業、父死す

1919   文芸雑誌『新生』創刊

1920   群馬銀行に入る、株式相場に手を出し失敗、奔放な生活に走る。

『日本詩集』1920年版に作品「梢にかかり眠るもの」掲載、日本詩話会員となる。

未来派詩人平戸廉吉と知り、詩の新しき面に眼を注ぐ。

☆新聞記者の深沼火魯胤を知る。

1921   (銀行を退いて上京、本郷区駒込千駄木町松濤館に止宿)

☆9月25日、赤城山外人村建設の反対運動発起人会に「キツネノス」同人たちと参加。

計画を中止に追い込む。(10月、正光社に入り雑誌『飛行少年』の編輯に従う)この頃、

肺結核の不治なることを医師より宣告され衝撃を受ける。

ニイチェ、ドストエフスキー等の著作に親しむ。

1922  雑誌『種蒔く人』等に詩を発表。社会的傾向しだいに濃厚となる。

☆7月、この頃からクロポトキンの著作に親しむ。

☆ 9月、この前後に銀行を退職。この頃本郷区駒込千駄木町、松寿館に止宿。

☆上毛新聞記者、山崎晴冶の斡旋で正光社に入社、児童雑誌『飛行少年』の編集に従事。

☆この頃壺井繁冶の来訪を数度受け、新雑誌を出す相談を受ける。

☆12月、岡本潤、壺井繁冶らと雑誌『赤と黒』発行を計画、有島武郎の資金援助を受ける。

1923

1月雑誌『赤と黒』を創刊(同人壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎)。 

3月、上田千代(愛称節)と知り、12月に到り婚約。

4月、正光社を退く。『日本詩集』1924年版に「傑作」「ドテッパラ」「若き者の歎き」の三篇収載。

7月『赤と黒』『鎖』『感覚革命』の三誌共同にて、日本最初の詩の展覧会を本郷区肴町南天堂、

神楽坂銀座その他市内4,5ヶ所に開催。この当時、ダイズム、未来派などの文学運動興隆し

『赤と黒』はその先駆的位置を占め、同時に新文学の途を拓いた。

一つの文学革命の時代であった。

☆9月6日、流言蜚語で自警団に襲われる朝鮮人を前橋駅構内で庇い、迫害にあう。

☆9月末、駒込千駄木蓬莱町大和館に移る。☆高橋澤造と共同生活。

(★11月蓬莱町の大和館に止宿)坂本七郎の来訪を受け、初対面。

1924 

★ 1月 植田ちよと結婚 4月、市外西ヶ原町滝の川に移る。

★6月『赤と黒』号外をもって終刊

★7月前衛美術文学雑誌『マヴオ』創刊、同人として加盟。☆4号から同人。

★10月『ダムダム』創刊 一号で終刊<同人、橋爪健、飯田徳太郎、神戸雄一、

高橋新吉、林政雄、岡本潤、小野十三郎、萩原恭次郎>

10月、長男、長男宏一生る。

11月、(★12月)岡本潤と共に駒込町に移り同居す。駒込の家には岡田龍夫、

深沼火魯胤等が来泊した。当時は窮乏の極にあり、岡本潤と共に少年少女読

物等を執筆したが売れず、豆腐屋の御用聞きにまで借金をするという始末であ

った。その間、松岡虎王麿の経営する本郷肴町南天堂階上レストランに日夜

出入りし、宮島資夫、辻潤、田戸正春、百瀬晋等と相知る。そこで不思議に無

一文にて酒と食物を得、自棄的に乱酔したことも度々であった。無名作家時代

の林芙美子も当時南天堂によく現わる。いわゆる「南天堂時代」なり。『日本詩

集』1925年版に「生活」「旅行」「ヲンナ」の三篇収載。

1925

4月、市外下落合中井に移る。

★5月<詩を生む心復活>の会で講演10月、第一詩集『死刑宣告』を長隆舎よ

り出版。更に下落合中井地内に移転す。この頃、新興芸術の総合性を主張し、

藤村幸男と称し、創作舞踊を発表せしことあり。『日本詩集』1926年版に「ボロの

心臓の内壁にぶら下げられたる前世紀のもの」等五篇を収載。

<☆11月6日>『死刑宣告』の出版記念会は九段画廊に於て異常な盛会を極め

た。同詩集はダダイズム、未来派、構成派等の新しい文学運動の頂点に位置す

るものであった。

1926

2月(★1月)東京の家を解散し、妻子を茨城県湊町の妻の実家に送る。 

5月、(★6月)妻子と共に駒込千駄木町に移る。(この家は内海正治の所有で家賃

無料、溝口稠も同居した)(★溝口稠宅)

☆駒込千駄木、溝口稠宅に一家で奇遇。(次男和郎生る。)この当時、ベルグソンの

哲学に親しむ。

1927

1月、雑誌『文芸解放』創刊(同人壺井繁治、小野十三郎、麻生義、岡本潤、飯田豊

二、飯田徳太郎ら)世田谷町若林に住す。この頃より熱狂の文学の時代を過ぎ、その

思想的立場をしだいに明らかにし、社会詩人としての方向をとる。☆2月21日次男和郎

誕生。

★ 5月若林に移転

★8月文芸解放社はサッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となり、23日築地小劇

場で抗議演説をし、米国大使館に押しかけ石川三四郎、新居格らと検束留置さる

9月 アナキズム系詩誌『バリリケード』創刊、岡本潤、小野十三郎、草野心平らと編集

同人となる 

★10月解放座の「悪指導者」(築地小劇場で上演)に出演 

★12月壺井繁治、江森盛弥らが脱会して『文芸解放』第11号で終刊。<『文芸解放』11

号掲載の「我等は如何に彼等と対立するか」で、マルキシズムへの転回を示した壺井繁

治が黒色青年連盟員に襲撃され、傷ついた彼を恭次郎が家まで背負ってゆくという事件

があり『文芸解放』は解体した。>

■若林の家には金井新作も一時期同居。

■この年、駒場に住んでいた秋山清がたびたび往来する。徒歩で 20分くらいの距離であ

ろうか。また富ヶ谷に住んでいた小野十三郎も往来したと推測。

1928

★ 1月 辻潤の渡仏送別会に出席

★6月 麻生義、松村元らとアナキズム文学誌『黒旗は進む』を創刊。一号で終わる。エリゼ・

ルクリュの「アナーキイ進化と革命」の翻訳をはじめる。

★………離京の送別会は麻布天現寺の福生館で開かれ、集まるもの小野十三郎、草野心

平、坂本七郎、壺井繁治、横地正次郎ら。<福生館には小野、金井新作が下宿し、帰省中

の金井の部屋に草野が臨時にいた>

★10月 家族と共に帰郷し、以後石倉に家居す。家業は荒物雑貨商。

☆家族と共には翌年1月

1929

1月、平凡社発行の『新興文学全集』第十巻(日本詩人編)に多数の詩を登載し、同時に未発

表の長編詩「一匹の鷲」をも収録。

☆1月下旬、一家をあげて帰郷。

★2月 草野心平、伊藤信吉らと安中町に遊ぶ。

★5月『学校』第五号に「断片」詩を三扁寄稿………以後、「断片」という題で詩を発表し続ける。 

★6月尾形亀之助詩集『雨になる朝』出版記念会に出席 

★6月頃、前橋之製糸工場にアナキズム運動の働きかけを始める

☆この年岡本潤、尾形亀之助、小野十三郎、逸見猶吉、宮崎孝政らが前橋を来訪、交歓。更科

源蔵が恭次郎母屋の縁側で草野心平一家、恭次郎一家六人の写真を撮る。

1930

★ 2月 小野十三郎、秋山清が『弾道』創刊……恭次郎は『弾道』に協力すると共に、塩野筍三、

南小路薫、温井藤衛ら群馬の新人作品を推薦した。

1931

1月、小野十三郎、草野心平との共訳にて『アメリカプロレタリヤ詩集』を出版。弾道社。

☆1月、塩野筍三詩集『隋道』(子供社)に草野心平とともに序文を寄せる。

☆この頃詩集出版の相談のため小林定冶を伴って上京、溝口稠、五十里幸太郎らと歓談。翌日『詩

神』社の宮崎孝政を訪問。夜、北川冬彦、小野十三郎らと遊ぶ。

翌日、高橋新吉、坂本七郎、、渓文社の神谷暢、竹内てるよを順次訪問。

★6月 伊藤和の『馬』事件に証人として千葉裁判所に出廷 

■秋になり東京府下松沢村赤堤の渓文社を二度訪ね詩集刊行依頼。一度目は一泊し竹内てるよ、神

谷暢と交歓。

10月、第二詩集『断片』を渓文社より出版。

(★4月)秋、群馬県在住の全詩人により、雑誌『全線』を発行、指導した。(三号まで続く)

1932

★ 6月 独力にて謄写誌『クロポトキンの研究』を発行し、プーシキン、ネクラーソフ、レルモントフ、ツルゲ

ーネフ等の詩人論を次々に掲載。

★自分で原紙をきり自分で刷った。第四号で終刊。三男謙吉生る。

★8月第二号発行

★10月第三号発行

★12月第四号発行この当時から、作品は愈よ生活性に定着しつつあった。

『クロポトキンを中心にした芸術の研究』細目
『クロポトキンを中心にした芸術の研究』萩原恭次郎 前橋市外上石倉自家版、謄写印刷
第一号 1932.6
詩 伊藤和(<馬事件>で投獄された経験を表現)、吉本生、小林定治、萩原恭次郎「もうろくづきん」
評論 小野十三郎「作家と民衆との接触に関するクロポトキン並びに我々の見解」、坂本七郎「芸術の社会性の研究」
消息記事 「千葉県に於ける雑誌『馬』の同人である両君の秘密出版、不敬事件。
伊藤和君、懲役 2年(4ヶ年間執行猶予)。田村栄君、懲役3年(東京衛戍監獄)。
伊藤君の証人として萩原恭次郎、田村栄君の証人として神谷暢、呼び出された」
「草野心平君、ヤキトリ屋……」
「岡本潤君、平凡社にいる」
「坂本七郎君、失業中」
「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」
「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」
「植村諦君、放浪中、詩集出版」
「小林定治君、失業……」
「南小路薫君、馘首、失業中」
第二号 1932.8.
詩 萩原恭次郎、前田貞宗、大島友次郎、杉山市五郎、伊藤和
評論 萩原恭次郎「クロポトキンの芸術論に関する研究的ノート」
消息 『解放文化』(東京市外下落合 1562)秋山方、第二号が出た
通信風評論 更級源蔵「目の痛くなる風景 北海道釧路弟子屈より便りに代えて」
第三号 1932.10
詩 鈴木致市、秋田芝夫、伊藤和、竹内てる代
評論 猪狩満直「若きカーペンターを語る 三野混沌について」
萩原恭次郎「クロポトキンの芸術論に関するノート」
第四号 1932.12
詩 伊藤和
評論 小野十三郎「土田杏村『人間論』を巡っての対話 個性に就て」、萩原恭次郎「クロポトキンの芸術観に関する研究」
無木鳥「伊藤和君の詩に就いて」、高山慶太郎「手紙 『弾道』その他に就いて」
消息 『南海黒色詩集』(松山市佃町 25、新創人社刊)
『解放文化』第 6号、『弾道』復活第二号の紹介

1933

★ 2月吉田一穂編集の季刊『新詩論』第二号に評論「クロポトキンの文学論に関する研究的序説」を発表

★6月萩原朔太郎の個人雑誌『生理』創刊号に詩「復讐」を寄稿。四号、五号にも寄稿。  1934   

2月、四男克己生る。

(★6月)8月、前橋市煥乎堂書店に入り、同時に群馬県書籍商組合書記を兼任。

1935

(★ 11月)10月、季刊誌『コスモス』発刊。(同人草野心平、北川冬彦、岡本潤、小野十三郎、

淀野隆三、高橋元吉)

1936

1月、長女ケイ子生る。この年『断片』以後の作品をもって詩集発刊を計画したが、編輯半ばに

して放棄す。

1937

5月、西東書林発行の『現代日本詩人論』に「萩原朔太郎論」を収載。年末あたりより健康すぐ

れず。なお思想的に新しい面を漸く展き、民族的自覚を明確にす。

1938

11月19日午後、菊岡久利理詩集『時の玩具』のための序を書く、これが絶筆となる。

11月22日  午前零時15分、溶血性貧血(胃病)にて死亡。享年40。翌23日葬儀。



赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・序

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改定 2011.6


一 赤堤


「恭次郎君は、カラカラと日和下駄の音をさせてやってきた。世田谷、赤堤一丁目の山本というお百姓さんの畑の中にあった私たちの家へ。つまり図書出版渓文社へ、昭和六年の秋のある昼過ぎであった。彼は風呂敷包みから『断片』の原稿を出して〈是非これを作ってもらいたい。表紙にはボルトのカットをつけてくれ給え。ぼくの希望はそれだけで、あとは君にまかせるから、たのむ。〉と言って、その夜は泊まった。…脊椎カリエスで寝ていた竹内てるよ君も寝床に、はらばいになったまま仲間にはいり、賑やかな晩餐となった。恭次郎君はよく笑い、しゃべり、きげんがよかった。竹内君もよく笑う。」 神谷暢〈詩集『断片』が出来るまで〉




赤堤、詩人の竹内てるよが詩集を刊行していた図書出版、渓文社の所在地であった。そして一九三〇年代から十数年間の住まいでもあった。



渓文社は何処に在ったのか……刊行された書物のこと、いつ迄続いたのか……渓文社、これ迄に赤堤に存在した唯一の出版社である。


渓文社に関する詩人たちの記述は少なく竹内てるよを調べ始めた当初、渓文社は遥かに遠い存在であった。当時の住所は刊行書の奥付や同時代の出版物の広告に記されているので、それを手がかりに現在のおおまかな地域は調べられる。一九三七年刊行の「一万分の一地形図〈経堂〉」を調べ、地形図に見入る。経堂と豪徳寺駅間の北側には畑地が広がっている。その畑地の中に住居の印が点在している。道は農道であるのか畑に沿って湾曲している。三一年の萩原恭次郎は、数年前に開通したばかりの小田急線を利用し、豪徳寺駅か経堂駅から降りたのであろうか、或いは世田谷線の最寄駅を利用したのか。


恭次郎はしばらく若林に住んでいたので世田谷にはなじんでいた。若林に居た当時、豪徳寺の境内までは散歩の範囲であったことは推測できる。さらに甲州街道方面まで足を伸ばしたことはあるのだろうか。


背が高い日和下駄の恭次郎は七〇年前の赤堤を歩き竹内たちの住まいに向かっていた。恭次郎を待つ二人は貧しいゆえ特別なもてなしは用意できなかったが歓待の気持ちだけは充分にあった。


渓文社の出版活動の情報は限られていたが少しずつ文献が集まってきた。主宰していた二人は共に詩人。神谷暢は七七年に死去、著作は刊行されていない。もう一人、竹内てるよは自伝も含め著作は多いが、この時期に関しての記述はあえて曖昧にしているのか赤堤にいた時期は具体的には書かれていない。竹内は長命で二〇〇一年に九六歳で死去。


 渓文社の時代、二人と近かった詩人たちの著作を調べるしかなかった。八八年に亡くなっている詩人秋山清が著書『あるアナキズムの系譜』(七三年発行)で章をたて渓文社の事蹟を述べていた。またそのテキスト中には神谷暢との対談も短いが収載されていた。


 それによると渓文社は短い期間であるが竹内以外にも後に評価され著名になる詩人たちの詩集の出版に力を注いでいた。


文献をさらにたどると六八年に発行された『萩原恭次郎全詩集』(思潮社刊)に付された小冊子に神谷が当時の思い出を掲載していた。そのテキストの一部が冒頭に引用したものである。


 赤堤の渓文社の一室。むしろ木造の貸家の住まいそのままを出版業務も兼ねた部屋という方が正しいかもしれない。


 竹内は赤堤の家を回想、以前はここはまだ竹藪や畑ばかりであり農家は二、三しかなく、子供にあめを一つ買ってやるのも、畠を越えて歩いて行った、しかし電車が開通してから、あまり歩かなくなった、と語る。渓文社の一角は世田谷でもあまりひらけないところであったが竹内たちがこの家に住むようになってから、大分にひらけて来たというのである。借家建てとしては一番古い家で、東京のお金持ちが、病身のむすこのために建てたので狭い、と住まいの由来と様子も語っている。(『愛と孤独と』、五二年発行、宝文館刊)


 恭次郎は渓文社の二人を前にして、自分の詩集を刊行する目途がついたせいか酒なしの晩餐でも気分がよかったようである。恭次郎はおとなしくなっていた。ほんの一〇年程前、『赤と黒』の刊行前後、本郷白山の南天堂二階で連日酒を飲んで騒いでいた「疾風怒涛」時代の恭次郎とは異なっていた。そして「活動」の時期も経て、故郷での家族との生活が恭次郎を変えていた。


昭和の始めの世田谷である、畑地の周りは竹やぶがあり樹木も多かったであろう。部屋で半日談笑していると鳥たちの啄みの声も恭次郎たちに心地よく響いたであろう。竹内にとってこの数年間は充実した日々であった。神谷の詩人としての同志的な生活の支援に始まり、草野心平による初めての詩集『叛く』の刊行、六郷での坂本七郎の励まし、各詩誌への精力的な発表。竹内にとって恭次郎の消息は詩誌を通じて承知していても直接会う機会はそうあるものではなかった。話は弾んだに違いない、詩論や仲間たちの消息、直接聞くことができるということは竹内に活力を与えただろう。そして恭次郎の二冊めの詩集を刊行する作業に立ち会えることは大きな喜びであった。


恭次郎に限らず二人と関わりがあった詩人たちの貧乏ではあるが熱い思いの時代を探り、渓文社と書物をめぐる物語の序章としたい。


二 萩原恭次郎


 一九三一年まで、詩集『死刑宣告』が恭次郎にとっては唯一の著作であった。話題をよんだが、ダダイストや未来派の芸術家との共同作品の側面もあり、恭次郎にとっては表現し終えた作品集であり再版以降は増刷を承諾しなかった。


そしてアナキズムの立場を強めた恭次郎にとって仲間たちの手で自分の詩集が制作されることはその数年の活動を集約したものになり刊行するという決意は強いものであった。


恭次郎は一八八九年五月二三日、群馬県南橘村に生れる。二三年一月、壺井繁治、岡本潤らと雑誌『赤と黒』を創刊、『赤と黒』は、当時のダダイズム、未来派などの文学運動の先駆となる。二四年頃連日のように本郷、白山上の南天堂レストランに出入り乱酔していた。二五年、第一詩集『死刑宣告』を長隆舎より出版、二七年一月、雑誌『文芸解放』を壺井繁治、小野十三郎、岡本潤らと創刊。同年五月、世田谷町若林に移る。八月、文芸解放社はサッコ、ヴァンゼッティ釈放要求運動の中心となり、恭次郎も八月二三日に築地小劇場で抗議演説、その後米国大使館に押しかけ石川三四郎、新居格らと共に検束留置される。


これまでの恭次郎の年譜では以下の回想には触れられていない。当時の詩人仲間、金井新作は「まだ、世田谷の若林で、我々が共同生活をしていた頃、或る日、恭次郎と共に尾崎喜八を訪ねた」と回想している。またこの年、駒場に住んでいた詩人の秋山清がたびたび往来していたことは秋山自身の回想にある。「彼(恭次郎)が東京世田谷の若林あたりの、まわりに水田の多かった家に住んでいた頃で、そこからそう遠くない駒場にいた私は休みの日など時々出かけていったそのころ小野十三郎は私とは帝大農学部を距てた代々木富ヶ谷に住んでいた」『あるアナキズムの系譜』。徒歩で二〇分もかからない距離であろう。そうすると記述としては残されていないが小野も恭次郎と往来していた可能性は充分ある。小野は南天堂出入りの時期、そして文芸解放社で恭次郎と行動を共にし一番親密な時期であった。若林の具体的な番地を現時点では確認することができない。恭次郎は頻繁に書信を出すことはなかった。とくにこの時期の便りは警察との緊張関係も影響し受けたほうもすぐに処分をしていたのではないか。ただ『黒色青年』(黒色青年連盟機関紙)一二号(一九二七年九月発行)の消息欄に「文芸解放社は東京市外世田谷若林五二七壺井方に移転」とある。恭次郎が壺井と同下宿か近所に間借りしていた可能性は大きい。


少し金井に触れる。一九〇四年、静岡県沼津町生まれ。詩に関心をもち二六年、尾崎喜八を知る。二七年『文芸解放』、他にもアナキズム文芸誌の同人となり寄稿も多数。慶大仏文科を卒業、三四年には古本屋を経営しつつ自らの詩集を刊行する。同志の詩人碧静江と結婚。


恭次郎は二八年一〇月頃、東京を離れる。二九年五月、前橋で草野心平が刊行していた詩誌『学校』第五号に「断片」と題した詩を三編寄稿する。以降同じ『断片』という題で詩を発表し続ける。三一年、詩集出版を相談するため上京、「詩神」社を訪問。小野十三郎らと交遊。翌日高橋新吉、坂本七郎、渓文社の神谷暢、竹内てるよを順次訪問。さらに既述の渓文社訪問となる。一〇月にその第二詩集『断片』を出版。三二年、謄写刷りの詩誌『クロポトキンにおける芸術の研究』を謄写刷りで発行、自分で原紙をきり刷る。


 恭次郎は仲間達との共同性を意識していた。一九三一年一月に発表された評論、〈生産本位の芸術より消費本位の芸術生産へ〉において展開している。恭次郎は、詩をつくるつくらん、製本する製本せん、そんな問題は更に重要さを持たないと主張。…作者も共同者も助言者も、植字工も製本工も、各自の能力に従って共同の思想、全体に尊重の出来る作品なり行動なりをつくり出す以外の何者でないと、共同作業の過程が重要だと訴えている。恭次郎は文化人として、作家としての詩人の位置にとどまる気はさらさもなかった。仲間たちとの共同を求め、それぞれが担当する部分で力を発揮することが最良の作品をつくりあげると確信していた。竹内の苦闘も表現している。


 詩〈あんまり考えるな──ある女の像──〉抄              


肉体は木乃伊になろうと最後の呼吸まで正しく吐いて死体にならう。かつてその乳房は乳児の歯のない口が噛んだのだ。/……新宿の雑踏の片隅で赤や白の花を売る。それはごみごみの屋根裏から貧血の足を踏んで出て来たのだ。/ ……この日、彼女を肩にしてその屋根裏に夜を明かして介抱してくれた青年の顔は、火の如く燃えていた。 /……怖ろしい喀血の咽喉に湿布する手。カリエスの痛みに気絶する彼女を縛して堪へさせる手。


竹内の二八年頃の生活を描写。病気の身体で新宿駅頭に立つ竹内の存在は仲間の詩人たちの間ではすでに知れわたり、その竹内の生存をかけた花売りの姿を恭次郎は表現している。青年は神谷であろうか看病の姿を描いている。


三 竹内てるよ           


竹内は詩作を始めるまで、その短い人生において大きな苦難を経験してきた。一九五二年に発行された自伝『いのちの限り』(竹内てるよ作品集一、宝文館刊)を参考にする。一九〇四年、竹内は札幌で生誕後から生母と生き別れる。父親は銀行員、母親は半玉であり二人の仲は許されなかった。父親は借金を作り家には寄り付かず判事として北海道を異動する祖父と祖母のもとで育てられる。祖父の退職後一家で東京に出るが竹内は家計を支えるため、女学校を中退し商事会社の事務員となる。文学好きで仕事を終えると創作にいそしんでいたという。一六歳で『婦人公論』の短編募集に応募し入選、それが縁で他の出版社を紹介され記者となる。二四年五月、二〇歳で結婚、出産。二四歳にて脊椎カリエスに罹り病床に伏し離縁され、子供は手放してしまう。そして闘病生活の過程で詩の創作を始める。二八年『詩神』(福田正夫編集、実務は神谷暢)に作品を持ち込む。小田急線代々木上原駅近くに住まいがあったという。病身で我が子と引離され貧困の中で詩の執筆を続けるという生活に根ざした女性の登場は詩人仲間に衝撃を与え同情が広まった。二九年はアナキズム系文芸誌にも寄稿が始まる。「当時竹内君の病状は悪く、ほとんど毎日の喀血、血便、貧血による 人事不省状態の連続」と神谷は回想している。〈『渓文社』事始め〉。この頃の竹内の詩は晩年の著作にも収録されることもあるが、「評論」は初出誌でしか読むことができない。掲載誌は『黒色戦線』二九年四月号(第一巻第二号)である。


〈或る婦人参政権論者への手紙〉「Kさん 婦人参政権ははたしてそれを得ることによって全日本のしひたげられた女達の希望と幸福とをかち得るほど、それほど重大なものでせうか? Kさん おしつけがましい社会運動にはどん底生活者の婦人達はすべて愛想をつかしました。…参政権よりも一升の米です。…Kさん …私は現制度の破壊と、新しきアナキズムの社会の建設とを主張したいと思ひます……」


次に、『黒色戦線』五月号(第一巻第三号)では「生みの母」へ呼びかける形で、自己の出産、公娼廃止運動への批判を語る。この自己の出生に関しては戦後の回想、エッセイで繰り返し触れられて行くが活字化されたのは『黒色戦線』誌が最初ではないのか。


〈母さんあなたは生きていますか〉「母さんあなたは生きていますか。それとも、もう死んでしまはれたでせうか。…私は、こゝであなたへの積年の思慕や、感傷に沈んでゐるべきでないことをようく知ってゐます。」とまず生き別れといわれている母親への呼びかけで文章を始めている。


「母さん、…売れっ子であったあなたの妊娠は、烈しい鞭となってあなたを責め店の女将のけはしい言葉や、同輩たちの冷酷なさゝやきの中にどんなに心せまい思ひをなさったでせう。……」


 後年、竹内が聞かされたわずかな母親の出産前後の置かれた状況を述べている。


「母さん、現在東京のブルジョア婦人達は、彼女達のおざなり婦人運動の中に公娼廃止といふのもやってゐます。……私の身内に流れるあなたの血は、はっきりとそれを笑ってゐます。……この社会の苦悩から私達を解放するのは、決して少数政治家や支配者の寛容ではありません。民衆の中に民衆の生んだ正義への革命の日をおいて何時を信ずることが出来るでせう。……」


 この結論は当時の仲間たちと話し合い、運動紙誌を読み、急速にアナキズムを学ぼうとした影響が強く出始めている。気張った言い方ではあるが竹内なりの自分の境遇と重ねた精一杯の表現である。竹内は前述したように、坂本七郎の個人詩誌『第二』にも詩を掲載。仲間たちの詩誌へ毎月寄稿する。


 病身で自ら生活費を稼ぐという生きる欲求のエネルギーは周りの詩人たちを動かして行く。男の詩人たちも貧困の中で詩作を続けてきている故中途な同情ではないだろう。子と離され生活と表現を続ける竹内の存在に圧倒されていたのだろう。三〇年には秋山らの『弾道』、三二年には恭次郎の『クロポトキンを中心にした芸術の研究』に寄稿。同誌には「草野心平君、ヤキトリ屋……」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」と恭次郎が仲間たちの動向を簡単に記している。北海道、山形の『北緯五十度』、福島の『冬の土』誌と列島を縦断し竹内の寄稿先は広がってゆく。



赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち 其の二

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四 神谷暢と渓文社

  渓文社の創設は竹内てるよの存在抜きに語れない。直接の契機は竹内の詩集を刊行したいということであった。

 一九二八年、神谷は竹内との共同生活を滝野川の八百屋の二階、四畳半で始める。神谷は〇 五年、東京生まれ、父親は医者であったという。二三歳の神谷と竹内の出会いは詩作活動を 通じてであろう。同年一二月三一日、川崎に住んでいた詩人であり市会議員にもなった陶山 篤太郎経営の川崎新聞に神谷が印刷見習いとして通うことにした。そのため竹内と神谷は川崎と対岸の「六郷土手」に移る。東京府荏原郡六郷高畑六四四。竹内は前出の著作で渓文社の最初の地も回想し、その家は六郷川の川原にある土手の下で、よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があったとささやかな多摩川土手の自然をなつかしがっている。そして病いが続き神谷との共同生活に触れ、「私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達、この人と私は今も親密に交際している」と、戦後も共同生活が続いていると述べている。六郷高畑は現在の大田区西六郷である。多摩川が大きく湾曲して形成された河口州になる。神谷のこの六郷時代を描写した詩が二人の生活をよく表現している。

詩「二人 」抄                  神谷暢              

米箱には米はなかった /お米を買ふ金はなほさら無い /どうしたらいゝかを二人は考えた /俺達は貧乏を泣かない /金持といふことが何んの値打ちでもないと同じやうに /貧乏といふことは何んの誇るべき値打ちでもない /リヨウマチが俺を仕事から引き離した /俺は永いこと寝てゐた /俺は痛む足をバスケットの上へのせて寝たなりで童話なぞ書いた /身體の動かない彼女も熱や痛みと戦ひながら原稿を書いた/…/省線のがたがたに震へる二軒長屋の三畳の部屋で /俺達は段々落ち込んでゆく貧乏を感じてゐた /俺達は俺達の全力を合はせて生きてゆかうと強く思つた /俺達は貧乏を恐れまい /俺達は朗らかでゆかう。

竹内だけではなく神谷まで病気持ちで生活費を稼げないとある。竹内には草野心平らが「死なせない会」を設立し高村光太郎や尾崎喜八は現金での支援もしていたらしい。秋山は渓文社に関して「昭和四、五年頃からその存在ははっきりと記憶にのこっている。そこから刊行した詩集など記憶につよいものがあり、中浜哲の『黒パン党宣言』その他が発禁になったことも知っている…」と神谷との対談で語っている。また「アナキズム系詩人の一拠点のように見なされることになったのである。自分たちで刷り物をつくって撒く。自分の手で出版して売る、分ける。仲間のものを印刷する。 発禁になる前に配ってしまう。……」と渓文社の印象を残していた。神谷は「最初に刷ったのがこれなんだ」と、活版の詩集『叛く』を示し「寝てばかりの竹内がよろこんで、元気になったよ」と懐かしむ。この六郷で、仲間に呼びかけ活字を購入し神谷自身が学んだ活版印刷技術を基に、後に「けい」の漢字は渓と改めるが啓文社として始められる。頁物を制作できる九ポイントと六号活字が揃ったという。秋山が語っているようにアナキズム的思想の啓蒙。詩集、文集、童話、パンフレット、小新聞等の発行と印刷所の経営を目指したのである。「次がまた竹内の『曙の手紙』こいつは警察から注意されたね。それから別にガリ版で『相互扶助』という雑誌も二号出した。クロポトキン思想のわかりやすい紹介を狙ったものなんだ。そしたら警察がうるさくなって、 だからとつぜんのように今の世田谷区の赤堤に越した。」と移転の原因を語る。「渓文社の仕事はそれからといっていいだろう。赤堤に移ってからは精神的に、貧乏の中でやったよ」と赤堤時代が本格的な渓文社の活動時期としている。〈ききがき『渓文社』より〉

権力や支配のない社会をめざすアナキズムにも考え方がいくつかある。アナキズム運動史を著している小松隆二は「アナキズムにあっては人間をすべての発想・行動の根幹にすえることから出発する…」と語っている。また三三年には「なにものにも従属しない創造的な文学運動」を主張した解放文化連盟が発足、恭次郎、岡本、小野、秋山らが参加。小松は「運動全体では沈滞しつつあったが文学では活気をおびていた」とも述べている。渓文社のたちあげと出版活動はその一翼を担っていた。

渓文社の刊行物の幾つかを複写と原本で確認することができた。その刊行データを記しておく。

『叛く』竹内てるよ詩集 活版刷り 

著者 竹内てるよ 昭和六年四月一日印刷 昭和六年四月一〇日発行 定価五〇銭 東京府下六郷町高畑三〇七 発行謙印刷者 神谷暢 発行所 渓文社印刷所出版部 自由叢書第一編

 題字は高村光太郎の墨書。高村はすでに著名な芸術家であり詩人であったが、一九二五年、草野心平が訪問し交友が始まりそれを機に他の若い詩人たちとも交流をするようになった。

この年、『叛く』の奥付で確認できるが四月までは渓文社は六郷の住所。赤堤に移転した正確な月日は不明である。なぜ赤堤なのか。前述の対談で「警察がうるさくなって」という理由もあり移転は迫られていた、六郷は長屋であり人の出入りはすぐ判ってしまう。竹内や神谷自身の病状もあり少しでも環境がいいところを探したのであろう。赤堤の借家はもともと病気療養のために建てられた畑の中の一軒家である。空いてからも敬遠され、借りてがなかなか決まらなかったのだろうか。また数年前に小田急線が開通しているとはいえ冒頭の竹内の回想を読む限りではまだまだ不便な地域である。したがって家賃もそれほど高くはなく借りられたのではないか。竹内は神谷との「共同生活」の前は代々木上原辺りに住んでいたというので小田急線や世田谷への土地鑑も多少あったのだろう。

萩原恭次郎詩集『断片』活版刷り

昭和六年一〇月六日 印刷 昭和六年一〇月一〇日発行

発行謙印刷者 神谷暢 東京府下松澤村赤堤一八六 定価五十銭

 前出の神谷の『断片』刊行の回想では高村に表紙カットの相談をしたことを述べている。

「ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから《まあ、いいでしょう》と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした」

『第二曙の手紙』竹内てるよ詩文集 活版刷り 

題字 高村光太郎 昭和七年四月六日印刷 昭和七年四月一〇日発行 東京府下松澤村赤堤一八六番地 印刷人発行人 神谷暢 発行所渓文社 定価五十銭

三三年の初めか、神谷と竹内は住まいと渓文社を分離させ、北沢に一軒家を借りている。しかし若い同志たちの無軌道な振舞いで、維持することは困難になり再び、赤堤に渓文社を戻している。北沢時代は一年も続いていない。

 また東京の区制が拡大し世田谷区が誕生した時期にあたり、渓文社刊行物の奥付もそれにつれて変更されて行く。

『花とまごころ』 竹内てるよ詩集 活版刷り 

定価五十銭 昭和八年一月二五日印刷 昭和八年二月一日発行 発行謙印刷者 神谷 暢 東京市世田谷区北澤三ノ一〇二六 発行所 渓文社

『葡萄』竹内てるよ作品集 謄写刷り 

昭和九年二月三〇日印刷 昭和九年三月一日発行 東京市世田谷区赤堤町一ノ六六

渓文社の刊行書に掲載された広告、著作者関連の文献、秋山清の調査で渓文社刊や発売元となっているものを次にあげる。

中浜哲詩集『黒パン党宣言』謄写刷り。発売禁止処分。         

 中浜哲は当時ギロチン社事件の首謀者として有名であった。詩二篇〈黒パン党戦言〉〈黒表〉を収めている。渓文社に協力していた西山勇太郎が制作、刊行した。秋山がかつて所蔵し回想で内容に触れている。タイトルは戦を宣に変えている。

 中浜の本名は富岡誓。福岡県東郷村、現北九州市門司区生まれ。二二年に「ギロチン社」を古田大次郎らとたちあげる。大杉栄の虐殺後、後に広く知られる「杉よ ! 眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。二四年三月、恐喝犯として逮捕され、大阪控訴院で二六年三月死刑判決となり四月に絞首される。中浜は処刑されるまで大阪刑務所北区支所の独房で詩や回想記の執筆を進め、著作集が冊子として二五年一二月に刊行される。『原始』『文芸戦線』『解放』誌やアナキズム運動各誌紙に詩や評論が掲載される。

北達夫詩集『同志に送る歌』活版刷り

昭和七年十二月廿五日印刷 昭和七年十二月三十日発行 価十五銭     著者 北達夫 発行兼印刷人 神谷暢                  発行所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 渓文社                  

 北は本名、宮島義勇、一九〇九年茨城県菅野村生まれ、学生運動からアナキズム系の運動に参加。神谷、岡本らと交流、三〇年、アナキスト詩誌『死の旗』同人となる。詩集は神谷に勧められて刊行。                          

一九三一年度『アナーキズム文献出版年報』発禁 詳細不明                   

マラテスタ『サンジカリズム論』 (渓文社文庫)詳細不明                 

マラテスタは著名なイタリアのアナキストにして理論家。

竹内てるよ童話集『大きくなったら』渓文社満二ケ年紀念出版 活版刷り   昭和七年 十一月二十日印刷 昭和七年十一月廿五日発行 東京市世田谷区赤堤一ノ一八六 発行者印刷者 神谷暢                        

堀江末男小説集『日記』活版刷り

昭和九年十二月十日印刷 昭和九年十二月廿日発行 定価五十銭 発行者神谷暢 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八六 印刷者 吉本孝一 渓星社印刷所 東京市世田谷区赤堤町一ノ一八三 発行所 渓文社 東京市市世田谷区赤堤町一ノ一八六                    

堀江末男は一九一〇年大阪府寝屋川村生まれ、一九二八年京阪電気鉄道に勤務、三三年、『順風』(小野十三郎らの)同人となる。戦後は『コスモス』に参加。詩集『苦悩』『おかん』がある。奥付の中で神谷以外の印刷者の名が記されている。吉本孝一である。住所も三番地異なり渓星社という名も印刷所に付されている。吉本は群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流がありそのつてで一九三三年秋、渓文社で働き始めた。

フランシスコ・フェレル『近代学校・その起源と理想』(発禁) 渡部栄介訳   詳細不明                                 

フェレルはスペインの教育運動家、アナキスト。一九〇九年、政府のモロッコ派兵反対闘争に参加、逮捕され世論の反対にもかかわらず一〇月に銃殺される。子どもの自由意志を尊重する教育理論は自由学校につながる。

五 草野心平と渓文社                   

 草野心平は中国の大学に学び在学中から同人詩誌『銅鑼』を刊行した。草野と交友があった詩人たちが参加。日本に戻ってからも同誌の刊行と詩作を継続していた。その頃に草野は竹内と出会っている。「一九二七年一月、赤羽駅から新潟行き列車に乗るのを木村てるよが見送る(『草野心平全集』年譜)」しかしこの年に関しては草野の記憶違いと思われる。草野の回想では「…新しく同人になった木村てるよが喀血したと神谷からきいていたので、まず彼女を見舞ってから、東京をしばらく離れようと思った。幡ヶ谷あたりだった木村てるよの間借り部屋はわかったが、彼女はいなかった。机の上には長唄でもあるらしい台本があり、その写しが並んでいた。当時彼女は一枚五厘位で、その筆耕をやっていたらしい。帰りの道で彼女にあった。訳を話すと彼女は赤羽までおくるという。断ったがきかないので彼女の言葉に従った。」と述べている。(『わが青春の記』)。竹内は三四年発行の『宮澤賢治追悼』誌に〈午後八時半の透明〉という追悼文を執筆。その文中で「佐渡へ立つといふ夜のステーションの汽車をまつあひだ…」と草野から賢治の芸術の世界の話を聞いたというエピソードを記しているが何年かは記されていない。草野の年譜には「新潟行き」がもう一つある。「一九二八年五月、再び新潟へ、寒河江真之介の〈カフェ・ロオランサン〉の食客となる」とある。『銅鑼』誌一五号(二八年五月刊)には「木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わると記載」。既述したが、竹内は『詩神』に初めて作品が掲載さたのが二八年であり、そこから詩人たちと交友が始まる。それ以前の二七年一月に草野と会うというのはおかしい。草野が二八年と混同しているのではないか。

 二八年、草野は坂本七郎のすすめで前橋市に転居。一二月になり個人詩誌『学校』を創刊。二九年、『学校』は二月から続けて刊行され月刊ペースである。竹内は五号まで毎号寄稿。五月になり草野は竹内の詩を集め『叛く』と題し、自らのガリきりで銅鑼社(上州前橋神明町六九)から、謄写印刷の百部限定で刊行する。印刷人は坂本七郎。表紙は毛筆で書き、「製本は女房と二人で」と回想。そして後に第一書房から出版された詩集で竹内が有名になるが、その機縁が『叛く』であったことを聞き「私はうれしかった。」と語っている。(『火の車』〈前橋時代〉)

 草野は自らも貧乏ではあったが竹内への支援を惜しまなかった。神谷との交友は元々ありそれが渓文社との深いつながりになる。自著を刊行するだけではなく、すでに銅鑼社の活動を止めたという理由もあるが同社刊の詩集も渓文社から再版している。草野が関わる刊行書を記す。

草野心平詩集『明日は天気だ』謄写刷り

草野は東京に戻り焼き鳥屋をしながら詩作を続けた。そして屋台を引きながら突然に詩集刊行を決意する。それが三一年九月刊の『明日は天気だ』。

「…八月二六日の晩。自分のやってる焼鳥屋の屋台で突然本を出すことに決めた。附属品や自転車を買いたいためである。…一九三一年九月一日。曇後晴。」と刊行が突発であったことを『明日は天気だ』の後記から回想している。謄写版刷り、百部発行。制作過程も、普通の詩集としてなら約二百頁分位を朝からネジリ鉢巻きで原紙を切り、夜は刷り綴じと一日でやってのけたと語っている。『わが青春の記』。草野は中国での『銅鑼』刊行以前から謄写刷りで私家版の詩集を出していた。前橋でも『学校』誌は草野が原紙をきり謄写刷りである。したがって自分の詩集のためならば一日で作業を終えてしまうのは造作もなかったであろう。渓文社は制作では関与していないようである。草野は自身で謄写版を用意できたしガリきりの技術は慣れていたからであろう。つまり渓文社の連絡先を草野は必要としていたということである。

草野心平訳『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』活版刷り   昭和七年九月一日印刷 昭和七年九月五日発行 発行者 東京市外松澤村赤堤一八六 神谷暢 発行所 東京市外松澤村赤堤一八六 渓文社 定価十五銭送料二銭                              

サッコとヴァンゼッティはイタリア系アメリカ人。二七年八月、全世界の釈放運動にも関わらずフレームアップ事件で処刑された。東京においても同月釈放のための集会がもたれアメリカ大使館への抗議闘争となり恭次郎らが検束されている。七七年に時の州知事が無罪宣言をするが、それを受け草野は回想、詩にしている。                               

坂本遼詩集『たんぽぽ』活版刷り

(銅鑼社刊の再版) 昭和七年 発行 府下松澤村赤堤一八六                 

元本の銅鑼社版を草野が回想。元本は昭和二年九月の発行。著作者、坂本遼として兵庫県加東郡上東条村横谷の住所、発行所は土方定一の住所を銅鑼社としている。草野の序詩と跋、原理充雄も「坂本遼の手紙」を序として執筆している。                        

三野混沌詩集『ここの主人は誰なのか解らない』

原本は確認できていないが、草野と三野とのむすびつきで刊行したと推測。三野混沌は本名吉野義也、一八九四年福島県平窪村生まれ。詩を書き始めて山村暮鳥を知る。一九一八年、早大英文科に入学するも翌年開墾生活に戻る。一九二四年、草野を知り、『銅鑼』『学校』などの同人となる。

『宮沢賢治追悼』(次郎社刊) 活版刷り

昭和九年一月二十五日印刷 昭和九年一月二十八日発行 定価五十銭 送料二銭 編集兼発行人 東京市渋谷区大山町二十三番地 草野心平 印刷人 東京市芝区浜松町一丁目十五番地 鷲見知枝麿 発行所 次郎社 東京市本郷区向ヶ丘弥生アパート内 発売所 東京市世田ケ谷区松沢村赤堤一八六番地 渓文社 振替東京三六五九〇番 B五判紙装・グラビア肖像写真一葉・目次二頁                         

発行所は当時の逸見猶吉の住所。執筆は旧銅鑼社同人が中心。神谷暢「光の書」、竹内てるよ「午後八時半の透明」を収載。渓文社の住所表記は旧に世田ケ谷区を付しただけの誤記であろう。               







赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・序 其の三

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六 坂本七郎                              二人を支えた詩人で坂本を忘れることはできない。彼もまた詩集を残さなかった。しかし既出の個人詩誌『第二』が各地の文学館に所蔵され読むことができる。一九二九年当時、八王子に住んで居た坂本は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねた。坂本は『弾道』二号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿している。  


〈第三夕暮の詩〉抄

掲示は白く分倍河原/南部鉄道へ乗換駅/この武蔵野西北隅の/雲に濡れる一小駅に/汽車を待つのはおれ一人か/冷いベンチに身を凍らせて/目を落とす、眼前を走る鉄のレエル──/荒涼の涯の川崎市外/煙に澱む六郷川/そこに友がいる、病み闘う/この寒風の凛烈にも/挫けぬ、氷河の床に燃ゆる人……………

『第二』は謄写刷りで六〇部前後の印刷、二九年に九号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。 坂本の「夕暮の詩」には、第一から第四まであり、第一は八王子の織物女工たちを、第二は工場法実施を、第四は十六歳の電話交換手をテーマにしている。坂本は恭次郎とも親しかった。〈「思い出断続」より〉 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」

 編集記を読んで行くと、二九年の坂本七郎の奮闘が浮かび上がる。

「第五号の詩をガリ板で二十頁分書き終へたのは土曜日の夕刻であった。すでに暗くなった窓の外に眼をやって、僕はくたびれた手を休めた。今夜は尾形君の詩集の会があるのだと知っていても一銭も持っていない僕はどうしやうもなかった。…午後一時から七時までぶっつづけでガリガリやった。そしてやっと終へた。何よりも理屈よりも僕は今日の自分を信じたい。六月八日」

坂本が如何なる事情で、この時期経済的余裕がなかったのかは不明である。技術者として八王子で働いていれば、最低限の収入はあったのだろうが、放浪の人でありそれまでの生活での借りもあったのかもしれない。謄写刷りとはいえ『第二』を毎号六〇部刷り郵送していたが、多くの仲間から購読料を得るのは困難であったろう。また神谷たちへも支援していたのかもしれない。いずれにしろ電車を乗り継ぎ、出版会に参加する余裕はなかったのは事実である。参加できない寂しさをガリ版に向けていた。また七号の後記には「『第二』六号の、竹内、神谷両君の作品には誰れも打たれました。岡本潤君からは直ぐ手紙が来ました。」と二人の六郷での生活とお互いを描写した詩に触れている。そして竹内の「午後から発熱して分からなくなるから、熱の出て来ない内に急いでこれを書いた」という七号の詩にも言及している。

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。渓文社の二人への応援に満ちている。秋山清はこのようなヒューマニズムの内面にある「思想的弱さ」を批判しているが、この時期に凝縮した相互扶助的な精神はそれぞれの生きる糧となっていたことも確かと思われる。

七 詩集『断片』

 再び、神谷の回想に戻り渓文社の一室。

 恭次郎は「これはうまいんだ!」と言いながら、いろり火で生がを焼き味噌をつけてぼりぼり食べている。神谷は「他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが…」と記す。恭次郎は「断片」の原稿を示しながら詩集の体裁に関し最低限の希望を話す。「出来上がりの厚みが出るように」と。

 材料費は恭次郎が先においていったが、制作にあたり神谷にとって余分な出費はおさえなければならなかった。秋山の回想によると赤堤の渓文社を一度訪ねた際に部屋に活字が広げてあったとある。しかしこの時期理由は不明だがそれら活字、印刷機等、印刷に必要な一切のものは仲間である淀橋(現在の鳴子坂上辺り)の西山勇太郎のところに置いてあったという。そのため赤堤から淀橋通いがはじまる。「それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………」と語る。

西山は一九〇七年に東京で生まれ、小学校卒業後に木村鉄工所に見習工として入る。病気になり回復後は事務員として住み込んでいた。二四年、辻潤の訳でシュティルナーの〈唯一者〉の思想に触れ、放浪の人、辻潤の滞在先として便宜をはかっている。三一年、『叛く』により竹内てるよ、神谷暢を知り渓文社の活動に協力する。三四年、雑誌『無風帯』を刊行、辻、竹内、岡本潤らが執筆。辻潤追悼を『無風帯ニュース』で企画。

西山は生活記録の中で「一九三一年の初夏、わたしの薄ぐらい埃とごみの部屋の中で、神谷暢君が活字を拾って組んで…」(三八年の項『低人雑記』三九年発行、無風帯社刊)と回想。『神谷は恭次郎の打ち合わせを秋としているが、『断片』の一〇月刊から逆算しても、打ち合わせの季節は西山の初夏のほうが正しいのではないか。西山の回想は七年後、神谷の回想は三〇年余り後である。

 万年床の敷いてある暗い部屋で昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかったと神谷は描写している。「活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。厚ぼったい、色のきたないちけん(地券)紙に刷った」

しかし刷りあがった後、製本段階でうまく行かないことが判明する。製本屋に頼んだが、「出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった」とある。神谷は開いて見られるように糸かがりの製本を頼むつもりであった。しかし小さな製本屋はそれが出来ず上から針金どめにしてしまったという。手きんで一頁ずつ刷ったのが失敗であった。印刷だけの技術は習得したのかもしれないが、書物を制作する様々な過程を学んでいなかったのではないか。三五年後の回想でも詳しく記しているから、相当に心残りであったのだろう。

詩集『断片』が手元にある。



 確かに現実の詩集『断片』を手にして頁をめくるのは苦労である。本文紙が固い紙なので両手を使い、普通より少し力をいれてようやく半開きという始末である。完全に折り曲げることは不可能ではないが繰り返すと痛んでしまう。しかし固い紙だから保存には耐えたのではないだろうか、背が痛む以外は頑丈な詩集である。「いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。…甲州猿橋にて。六六年九月」と神谷は回想をしめくくっている。

 恭次郎も頁を開くのに困難を強いる詩集は内容に合っていると思ったのではないか。タイトルも最初は『鉄の箒』とつけたかったようであるから、頁を繰り読むという行為自体も意識化する固い紙はよかったのではないか。

『断片』への書評を萩原朔太郎が執筆している、それは、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だ、と言い切り、僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる、と絶賛である。また萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた、と故郷の同一性から語り、『死刑宣告』を評価した後、「今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。…」と支持し全面的評価である。(〈詩集『断片』を評す〉『詩と人生』一九三二年三月号) 

八 再びの赤堤

 一九三一年、渓文社の赤堤移転の年に始まった日本国家による中国への侵略も本格的にすすみ、三〇年代半ばになると戦時国家の状況下でアナキストたちにも治安維持法弾圧が続いていた。詩人たちは自らの思想を自由に表現できなくなり、ことばの自由は奪われ詩誌刊行は不可能となった。渓文社の活動も一九三四年に停止する。そのような状況下、第一書房の長谷川巳之吉が竹内のヒューマニズムに訴えた詩を中心に編集、順次刊行し好評を得た。『静かなる愛』四〇年、『悲哀あるときに』四〇年、『生命の歌(詩文集)』四一年『美しき朝』四三年と続いた。四〇年代以降は病状も回復傾向にあり、執筆活動もさらに盛んになり他の出版社からも刊行が続いた。それにつれて竹内の生活にも変化が起きた。詩集の刊行が続き一定の部数が売れると竹内は借家だった家を購入する。そして赤堤の地も変わりつつあった。「このあたりが町になつた。…庭は、私のたんせいで作つた。…植木を一本かうのに、私の詩の稿料であてたというのである。柿を一本買うのにあの詩、椿を一本買つたのはあの童話。というように、ねていて何の楽しみがなかつた私は、そうした収入で庭木をかい集めていた。」

そして故郷前橋に戻り生活も落ち着いた恭次郎は戦争国家を高揚させる詩を発表、かつての仲間たちを驚かす。しかしその広がった波紋を知ることなくしばらくして病死、数え年四〇歳、三八年のことであった。数年後、仲間の詩人たちは沈黙するか、恭次郎のように国家の側に身を寄せた詩を作る。高村光太郎もそうであり、竹内もその一人であった。恭次郎の追悼会は前橋と東京で開かれている。出席者の名が回想されているが、そこには竹内の名は無かった。

しかし前出の戦時下に第一書房から刊行された詩集に「木いちご」という詩が収載されている。初出の記録も解説もないが、恭次郎との赤堤での出会いを回想、追悼していることに間違いはない。

赤堤を竹内と恭次郎が連れ立って歩いている。「みどりいろの電車」とは世田谷線の電車ではないだろうか。「豪徳寺」駅で待ち合わせとしても世田谷線は横切ったのであろう。三一年、恭次郎は二度、赤堤の渓文社を訪れている。二度目の渓文社訪問では竹内が具合がよく、恭次郎を駅の方まで迎えに行けたのだろうか。いずれにしろ「駅」と渓文社をつなぐ道筋の情景を詩っているのは間違いない。木いちごに恭次郎への追憶を込めた竹内の心情はいかなるものであったか。子供と別れ病気に苦しんだ孤独の時代の後、アナキスト系詩人たちとの交友の時代を思い起こしていたのか、日本という国家の変貌か、あるいは竹内を含めての詩人たちの変貌をも恭次郎の死と重ねて思い返していたのか。

詩〈木いちご〉               竹内てるよ

雨にぬれたみどりいろの電車は/おもちやのようではないかと笑つて/並木みちの下かげに/私が木いちごのみをひろつたとき/よわいからだで/洗わない木のみをたべていゝかと/やさしく近よつてたずねたる人/一生を四十年にちゞめて/嘗て 畏敬せられ 又親しまれつゝ/赤城山のみえる町にて かの人は死んだ/木いちごの白い花が咲けば そのとき/木いちごのオレンヂいろの實がなれば/また そのとき/亡き人は/かく たくましき一生の中なるやさしさを/ほのかに 私の胸につたえて来て/木いちごの舌にころがす ほの甘きまで/一つの悲哀 なお更に/尊く切なかりしかの生涯の思い出とした

二〇〇四年六月、赤堤に移って半年がたった。あの渓文社の時代から七〇年、電車はみどり色ではなく、木いちごも見ることはなく、渓文社に拠った詩人たちもすでにいない。二人のすまいと渓文社はここら辺であったのかと住宅地に変貌した街を通るたびに思う。答えられる「場所」も「人」も不在である。時も過ぎ去ったが渓文社があの時代に刊行した書物で詩人たちの意思だけは残されている。今、この国の振る舞いは七〇年前と同じになってきた。国家が強権を行使するとき、どのような生き方があるのか。残された書物から詩人たちが国家に抗した時代の生き方を読むことは可能である。

参考文献 (本文中に記していない文献)『萩原恭次郎全集』静地社刊、一九八〇年・八二年発行。『草野心平全集』筑摩書房刊、一九七八年─八四年発行。金井新作、三野混沌、堀江末男に関しては『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版刊、二〇〇四年発行を参照。吉本孝一に関しては『吉本孝一詩集』(一九九一年一二月発行)寺島珠雄編「吉本孝一詩集刊行会」刊を参照 。








<詩集『断片』を評す>   萩原朔太郎

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明白に言って、僕は今の詩壇に飽き飽きして居る。

どこにも真の創造がなく。

どこにも真の情熱がない。

若い元気のある連中ですらが、
時代の無風帯に巻きこまれて仮眠して居る。……


こうしたナンセンスの時代に於て、
最近僕は一つのがっちりした、
稀れに内容の充実した好詩集を見た。





 即ち萩原恭次郎君の新書『断片』である。

  最近の詩壇を通じて、
僕はこれほどガッシリした、
精神のある、
本当の詩の書いてある詩集を見たことがない。


 この詩集に書いてるものは、
シイクボーイの気障な流行意匠でもなく、
  蒸し返した自由詩のぬらぬらした咏嘆でもない。

これは一つの沈痛した
   __その精神の中へ鉄をハガネをねじ込まれた__
 巨重な人間意志の歪力である。


表現を通じて、
言葉がその「新しさの仕掛け」を呼んでいる。
言語はぶしつけに、ねじまげられて、
乱暴に書きなぐられている。


しかも力強く、きびきびとして、
弾力と緊張とに充たされて居る。


すくなくとも詩のスタイルとフォルムの上で、
『断片』は一つの新しい創造を啓発した。


本来言語に緊張を欠き、
ぬらぬらとしてだらしのない現代日本の口語を
以て殆どやや過去の文章語に
近いほどの弾力と緊張とを示したことで、
  最初に先ずこの詩集の価値をあげ、
恭次郎君の芸術的功績を
賞頌せねばならないのである。



かつてダダイズムの詩集

『死刑宣告』を書いて以来、
恭次郎君は久しく郷里の田舎に隠退して居た、
あのアナキズムの没落や、

それの悲運に伴ふ同志の四散やが、
おそらくは君の心境に
 影深い衝動(しょっく)をあたへた。


そして一人で田舎にかくれ、
静かな孤独生活を続けて居た。
                 
   かつて昔、外部に向って     
ヒステリカルに爆発していたところの、
あの一種の虚無的テロストの情熱は、
田舎の孤独な生活からして、
次第に君の内部に向ひ、
魂の深奥な秘密に対して、
静かな冥想の目を向けるようになって来た。

そして今や、
君の本当の「詩」を意識して来た。

それはヒステカルの興奮でなく、
より内奥な意志をもつところの、
静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、
そしてその怒を書くところの抒情詩だった。 


 詩集『断片』は、
決して所謂プロレタリア詩の
類種ではない。


 それはもっと芸術的で、
高い美の精神をもったところの
別の種類の詩集である。(といふ意味は、
それが「政治のための手段」でなく、
真の「芸術のための芸術」であり、
美を目的とする創造であることを
指しているのである)


    僕は所謂アナアキストではないけれども、

詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、

全部残りなく同感できる。


なぜなら此所には、
世俗の所謂プロレタリア詩に
類型するところの、
あの常識的な社会意識や
争闘意識やの「概念」がなく、
真の人間性に普遍しているところの、
真の内奥的な意志や感情やがあるからである。
そして勿論、真に芸術と言はれる者は、
決して「概念」__
その中にイデオロギイも含まれている__
によって書かれはしない。


………然るに『断片』に於ける萩原君は、
むしろ一個の悲壮なる英雄として、
気品の高い崇高な風貌を以て示されて居る。

それは運命の逆圧された悲劇の中で、
あらゆる苦悩に反撥しつつ、
苦悩に向って戦を挑むところの、
人間意志の最も悲壮な英雄詩を本質して居る。


(その限りに於て、
僕がかつてニイチェから受けた強い刺激を、
同じやうに萩原君の詩から受けた。)


 恭次郎君の詩人的特性には、
或る種の妙にひんまがった冷酷で意地の悪い、
歪んだ力のユニイクな反撥がある。


 この一種の歪力が昔から一貫して、
君の詩の特色を風貌づけ、
且つその点で特殊な魅力を持ったのであるが、

今度の『断片』に於てもまた、
それが詩的情操の重心となり、
バネのよく利いてるネジのやうに、
詩の情感性をぎりぎりとよく引きしめて居る。


この特殊な意地の悪さ、惨虐性、

ひん曲った意志の歪み、
それが恭次郎君の場合に於ては、
すべての芸術的機関部になって居るのである。

恭次郎君の場合に於ては、
すべての英雄詩的な者も、
皆この一つの機関部から動力されて居る。…………


 萩原恭次郎君と僕とは、
偶然にも同じ上州の地に生れ、
しかもまた同じ前橋の町に生れた。
多くの未知の人々は、
しばしば誤って僕等二人を肉親の兄弟だと思っている。


それほどにも偶然の故郷を一にした
我々二人は、
芸術上に於ても、
多少また何等か共通の点がないでもない。


 前の『死刑宣告』の詩的本質から、
かつて僕はその一部の共通を感じて居たが、
今度の『断片』を読んでもまた、
同じく或る点で共通を発見し、
芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。

最後に再度繰返して、
僕は詩集『断片』の価値を
裏書きしておく。


 今の若い詩壇と詩人が、
もしこの詩集の価値を認めず、
理解することが出来なかったら、この上もはや、
僕は何物をも彼等に求めず、
一切を絶望して引退するのみである。


『詩と人生』(19323月号) 


<詩集『断片』が出来るまで>  神谷暢

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 恭次郎君は、カラカラと日和下駄の音をさせてやってきた。世田谷、赤堤一丁目の山本というお百姓さんの畑の中にあった私たちの家へ。つまり図書出版渓文社へ、昭和 6年の秋のある昼過ぎであった。彼は風呂敷包みから『断片』の原稿を出して「是非これを作ってもらいたい。表紙にはボルトのカットをつけてくれ給え。ぼくの希望はそれだけで、あとは君にまかせるから、たのむ。」と言って、その夜は泊まった。当時、私はまだ慢性腎臓炎が治っていなかったし、酒をたしなむ方でなかったから、酒はなかったが、脊椎カリエスで寝ていた竹内てるよ君も寝床に、はらばいになったまま仲間にはいり、賑やかな晩餐となった。

 
 恭次郎君はよく笑い、しゃべり、きげんがよかった。竹内君もよく笑う。

「これはうまいんだ。!」と言いながら、恭次郎君はいろり火で生がを焼いて、それに味噌をつけてぼりぼり食べていた。他に何も食べるものがなかったのだから、これをたべるより仕方がなかったのだが__。

 翌朝、恭次郎君は『断片』の製作の一切をぼくにまかして、前橋へ帰った。その後『断片』が出来上がるまでに、一度だけ前橋から出てきたように憶えている。材料費は恭次郎君が置いていった。

 それから、じきに『断片』作成にとりかかった。活字、印刷機その他印刷に必要な一切のものは、淀橋の西山勇太郎君の所に置いてもらっていたから、赤堤から淀橋通いがはじまった。それこそ、雨の日も風の日も、通いつづけた。日日の食費にも事欠くような時であったので、毎日通う十銭の電車賃も心もとないとあって、歩いて通った。………西山君は木村鉄工所に住込んでいて、一と部屋というよりも小さい一軒建ての家にいた。そこに渓文社の印刷関係一切のものがあった。万年床の敷いてある暗い部屋で、昼も電灯をつけて仕事をしなければならなかった。活字をひろって、組んで、それを小さな手きんで一頁ずつ印刷していった。出来上がりの厚みが出るようにと希望もあったから、厚ぼったい、色のきたない「ちけん紙」に刷った。何から何まで唯一人でやっていたので、一日かかって、僅かしか出来なかった。朝めしをすませて、すぐ出かけてきて夕方までやった。夕方ともなれば、腹を空かして待っている、寝ている友人がいたので、おかずなど買って急ぎ足で帰っていった。

 表紙にはボルトのカットを入れてくれ__と言われていたし、標題の字体の希望も聞いてあったので、その意向を出来るだけ生かしたいと思ってやったのだが、どうも、うまくいかなかった。恭次郎君は何も不満を言ってはこなかったが、意にそわなかったものがあっただろうと今も思っている。私自身そうだから。

 ボルトのカットを画いた時は、高村光太郎さんの所ヘ持っていって、見てもらった。光太郎さんは、時計屋が修繕の時に使うような片眼で見る小さい筒のような眼鏡でそれをみ終ってから「まあ、いいでしょう」と言われた。心細いが、やや安心もして、それを使うことにした。本文が全部刷上るまで何日位かかったか覚えていない。

 いよいよ本文が刷り上ったけれど、表紙を印刷した後、製本屋に頼のんでやってもらった。

 出来上ってみると、ゴワゴワしていて、開いて見るのに、見にくいものになってしまった。はじめは糸かがりで製本してもらうつもりでいた。それなら、本文の紙が、こわばっていても、すっかり開いて見れるから。ところが、小さい製本屋さんであったのと、刷り方がまちがった、というより、手きんで一頁ずつ刷ったので、糸かかりにできないとの理由で、上から針金どめにしてしまったから、まことにまずいものになってしまった──というわけである。

 しかし、いろいろの不満もあったとはいえ、出来上がったときは、何んとも言えぬうれしさだった。真白い表紙の汚れるのを恐れながら、梱包して、前橋ヘ送った。折返し、恭次郎君から、よろこびの手紙を受取って、安心した。

  この時、恭次郎君の詩を一頁一頁刷ってくれた、手きんは、渓文社を興すときに、協力して貸してくれた。森竹夫君のものであった。 私は、いま詩集『断片』を持っていないので、一層なつかしさを覚える。あの燃える心で『断片』を作った三十数年前を昨日のようにも近く感じられる。今度『萩原恭次郎全詩集』が刊行されるということは、何んとも喜こばしいことであり、その刊行の意義の大きさと重さを思う。……甲州猿橋にて
( 1966.9.28 )  

<五十度の斷片> ──萩原恭次郎詩集「斷片」を読む── 坂本七郎

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 八年前、詩集『死刑宣告』が出た時、人々は驚動して「これこそ詩のエポックである!」と叫んだ。八年後の今日、われわれは一冊の『斷片』を手にして、これこそ真に生活し行為する者の革命の書であると叫びたい。

 五十九の斷片。

 それは四部に別たれ、著者のメモに依れば「一九二二 ── 一九三〇の間に散逸的に書かれているもので第一部は七八年前のもの」である。即ち第一部の十一の斷片は『死刑宣告』直後のものである。

 ………

 第一部。十一の斷片。

 これらがあの多彩的な、文学的な詩作の直後に書かれたものであることは極めて意味深い。単に形式の飛躍のみでない思想の、確たる進行を其処に見るのである。新しい精神は新しい形式を創造する。われわれがこの十一の斷片を読んで等しく感ずるのは、これらが、肉体的であるといふ点であらう。それは肉体を以てする抵抗者の歌である。皮膚の感傷はそこに無い。皮膚の微温もそこには無い。それは鍛練された鐵の意志を持つ。「涙は出切った、別の人になった。戦ふ人になった」著者の、ぎりぎり引きしぼる発矢である。斷片の一。これは戦ふ母の歌だ。彼の『死刑宣告』に見る「ああ愛は己に終了され、再び母の胸を踏る」歌ではない。思想の、確たる認識は、かくまで深められて母と子供を結びつける。

 斷片ノ一、斷片の二、斷片の三。われわれは愛が地面に浸透するほど深いのを知ってゐる。

スウバリューヌの好きな人 其の一 赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・第一章

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア

スウバリューヌの好きな人

赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・第一章



ギロチン社の古田大次郎は処刑された。
恭次郎の詩に市ヶ谷刑務所を
面会で訪れたものがある。
「古田君が此処でやられたのだ」
と確認し追憶する。

 さらに面会所にはいり「建物の並立してる
一番奥の中央にあると言ふギロチンに
変な電熱を感じながら」と
処刑場の存在を感じている。

刑務所内は自由に歩けないゆえ
出所者から伝えきいていたのだろう。


市ヶ谷風景   萩原恭次郎


お偉い方々の眼には市ヶ谷刑務所も歪んで
変てこな存在として宙に聳える

俺達には帝国大学とそんなに変ってうつらない

各工場も各職場も各学校も
むしろ監獄より暗くいん惨と言へないか

物凄い分厚い灰色の壁

高々とめぐっている下を通ってゆくと
異様な悪臭と親しさと敬虔な心が起きて来る


俺の握った札は十一号で手ヤニに光ってる

控所には髪毛のバサバサした女の背でキヤラメルを
しゃぶり乍ら肩を飴とよだれでよごしている男の子供の赤い顔

断髪女おめかけさんらしい女 
男達のいろいろの眼が眺めている暗い胸を
面会にワクワクさせているらしく子供に語ってる女

俺は蝶や菊の花を愛していた古田君が
此処でやられたのだナと思っていると

何んだか古田君のお墓参りに
来た気がする


『十一号!』看守に呼ばれて入ってゆく

うす暗い金網の檻には襟に番号をつけたアキちゃんの
額がドアを開けるより此方を向いて立っている

『アア! よく来て呉れたナ 子供は達者か 
何時東京へ来た! 差入れ有難う……』

互ひの肩を叩くやうな気になって来る

檻の網の中まで手を入れて握りたくなる

にこにこ俺達は笑はないではいられなくなる

内と外との消息がどんなにつらい事も可笑しげに語られる

『面会時間終り!』

アハハハ…………

号令した看守がびっくりする程事もなげな笑ひが
期せず互ひに噴き上がった

言葉で語れない最大なものが胸底をうねった


他の泣いたり吠えたりしている面会所をよそに出て来れば

更に面会人の数は控室にあふれている

友を夫を兄弟をここに送って猶平然たる明るい顔と

すっかり沈み込んで絶望的な心配を描いてる顔と

雑然たる囃し屋連とだまりやと変ちきりんな革命歌の鼻歌と………

三等待合室とさうは変らない

高い何号舎 何号舎 無数の暗い室

ひばの木 受付のおやぢのもっさりした髯

鉄門 

真鍮の大きな紋章 

藤棚 

囚人の腰紐と看守の草鞋履き

資本主義が当然たれた血の黒くなった糞の一塊りを後に

かういう所へは初めて来此処へ来た時は
もう殺されるつもりで来たのが嬉しかったと言って
×された大ちゃんの事なぞを思ひ

決して資本主義はいつも甘いもんどころのものでない事を更に深められる

この建物の並立してる一番奥の中央にあると言ふ
ギロチンに変な電熱を感じながら

大きな大ちゃんの墓穴になった市ヶ谷を後に俺はだらだら坂を下った 


鉄壁を越えて来た白い蝶が俺の行く前をちらちら飛んだ。
何んの理由もないが

ちかごろ一度足を踏んでおかうと思っていた市ヶ谷……。

 




變らない人──萩原恭次郎氏に就いて         岡本治子

 

萩原さんとお知合いになってからもう
八九年位になると思います。……

 

 萩原さん、壺井(繁治)さん、川崎(長太郎)さん、
それに岡本
()と四人で『赤と黒』という
雑誌を出すことになり、滝野川のわたくしどもの家が
発行所になっていたので、
その人達をはじめいろんな人達がよく見えました。
多勢でお酒をのんでさわぐこともよくありました。
萩原さんは背が高く骨ぶとい体格ですが、
顔を見ると何んだか蒼味をおびて、
眼鏡の下でヘンにすわった眼が、
冷たい氷のような凍味を感じさせる人でした。

 それにいったい無口な方で、
みんなで何かしら激しい議論をしている時でも、
萩原さんだけはひとりで
沈黙をまもっていることの方が多いようでした。
机龍之介型とでも云いましょうか──
そういった風な妙に冷たい感じを与える人でしたが、
先だつて久しぶりにお目にかゝつた時には、
あの頃から見るとよほど柔らいだ明るい
それよりもあたたかい感じを受けました。…

 



萩原のプロフイル                小野十三郎


 萩原と云うと世間ではなんでも
喧嘩早い乱暴な男のように考えている。
ところが実際は、
彼ほど冷静な人間はわれわれ仲間うちでも稀なのである。
彼はすぐカツとならない。潜熱そのものような人間だ。
萩原は悧好過ぎるという奴がいる。
しかし大抵の場合そう云う御本人の悧好さ加減に較べたら
萩原の悧巧さなんかまだまだ馬鹿の部類だ。冗談じやない、
敵にも味方にもお世辞をふりまく芸当が出来ないだけだ。
彼が味方に対する愛を、敵に対する憎しみとを、
はっきり見られない人間は彼を知るわけには行かないだろう。
悧口だとか、
悧口でないとかそんなプチブル的な言葉が
彼にあてはまる言葉であったら、
そいつは一番彼をブベツする言葉であろう。
彼の戦いはすでにそんな呑気な所には腰かけていない。


……


 萩原の筆不精も有名だ。
ときどき電報のようなカンタンな奴をとばす。
とにかく僕らは僕らの仲間の愛や友情の
ついていつまでもくどくど書き立てることに
熱中しなくなっただけでも一歩前へ踏み出したのである。
今また、こんな所でタドタド言ったら、
彼は「つまんない事を云うなって」
苦笑するだろうが、僕らの詩はこれから
ますますカンタンなレポートの型式を帯びてき、
それ故にますます力強くなるだろう。



 萩原恭次郎「七月上旬までの学生街」


 七月の上旬まではともかく美しく活気もある。
白山肴町から本郷三丁目までの街路。
やや太くなった銀杏の並樹の下を学生達の靴の音が、
朝から夜まで絶えない。帝国大学、第一高等学校、
日本医大、女子美術それらの生徒が
両側のコンクリートの道を埋めている。
若い学生はともかく美しい。

 彼等の中にはバカもいるが糞真面目もいる。
小さな反動、小さな野心家、小さな指導者もいるが、
全部が全部ブルジョアの教育を
ウノミにしているわけではないように思う。
大学生は若きプロレタリアには、
人間の屑のように思われている。………

 だが、ともかく美しい。
新鮮であって活気もある。……

 とも角、真面目で勉強家は美しい。
青年の熱情は美しい。未成年的美は甘いが、
一ガイにそれを拒けることはできない。やはり美しい。
本郷三丁目より白山肴町ではとも角美しい。
東京の町を歩っていると交番が一番目につくが、
三丁目の角の交番から第一高等学校前の交番まで、
この間が如何にも学生街の感じである。赤門前、
大学正門前、高等学校前まで片側は校舎、
片側はぎっしり並んだ古本屋に新本屋。

 暑中休暇になるまでは、本屋側にちょいちょい夜店がでる。
金魚や植木、土のついたままの芋だとか
キャベツを売っているのを見たこともある。
ぞろぞろ雑踏する。
歩いている男や女は九十パーセントまでは学生だ。…………


 三丁目から北に向かって燕楽軒の前にくると、
焼きたてのパンの匂いが軽く鼻をつく。
でこでこしたパンがふくらんで硝子の箱の中にある。
その柱の下に浮浪者が腰を下ろし、首をたれて地面をみつめていた。


 燕楽軒の前、俺たちには深い記憶がある。…… 




 三丁目から高等学校前までは賑やかで明るい。
だが高等学校から白山までは暗い。
そして学生の気も少ない。
だが肴町白山通りになると東洋大学、
日本医大の学生が多い。感じはまるきり異う。
………一高の寄宿舎の側の坂を下りた所にある
根津権現のお祭りでも、学生の姿が見えないと、
ここのお祭りらしくないと、ある文士が云った程、
この辺一帯の地は下宿屋ばかりで、
大がいそこの部屋には学生がつまっているくらいだ。


 七月の初旬が来ると、
この辺一帯を埋めていた学生の姿が
全く一人も見られないような淋しさを呈する。
僕は千駄木町に五六年住んでいたので、
学生がいない間は町や通りが広くなって
何んて物静かだろうと思ったことがあった。
そんな時、
根津権現の森でふくろうの声を聞いたこともあった。

 ともあれ、初夏--七月上旬までは本郷三丁目より
白山肴町までは若々しく新鮮で活気がある。
どんな種類の学生がそれを埋めていようとも──。


 



1889523日、群馬県南橘村に生れ、
中学校時代から文学に関心が強く、俳句を発表していた。


 修道院志望など 萩原恭次郎

 

 父は秋田鉱山専門学校、上田蠶絲専門学校及び一高、
そのいづれかに受験しろと云った。
他の私立学校には断じて入学させないと言い切った。

父はまるで自分の息子を知らなかったのだ。
ただ将来息子の「喰うに困らない」学校に入学さしたいだけだった。
僕は返事をしずに、その代り一月ばつか家をあけて、
木賃宿にとまつたり、百姓の家にとまつたりして帰って来た。
父は学校の事に就いてはそれ以後、
一言も口を出さなかった。僕もおくびにも出さなかった。

 
前橋正教会のその頃の牧師吉村忠三氏に
月水金に聖書の講義をされに通った。
(吉村氏は今春、雑誌『新ロシア文学』を出した人である。)
やがてその年の暮れ頃から日曜学校の先生みたいな事を初めた。
ハバロスク(?)の修道院に行く覚悟をもっていたのだ。
でも、最後までただ一つ信じようとした同教会の信者に、
なれなかった。
この頃同市新町の斎藤さんと云う家で
土曜日毎に宗教的な会合があって僕も出掛けた。
然しそこで宗教的な話しよりもより人道主義的な、
かつ社会主義的な事を座談的に喋った。
で、中には一日の仕事が終ってから、
同市の女工に自ら進んで裁縫を教えたり、
宣伝的運動を初める奮闘家も幾人か出て来た。

 ハバロスク行きは丁度出発に決心した頃パルチザンの修道院破壊、
修道士が殺されたり下野で、
吉村氏の忠告に従って断念した。
氏にはこの頃、月水金にロシア語を習った。


ある時は鉄工所へ行った。
ある時は畑へ鋤鍬をもって出掛けた。
ある時は秘密結社的存在をつくった。
諏訪町の長岡屋と云うそば屋の二階によく集った。
僕等の周囲には社会主義的人物は一人もなかったので、
幼稚ながら議論が戦わされると共に、熱っぽい感情に強く支持されていた。

赤十字の雇に入った。
六ヶ月ばっかで止めた。

 この頃、非常な興味をもって、
友人の新聞記者の家へ行って通信記事や新聞記事を手伝った。
農村運動を起すのが、我々の希望だった。

萩原朔太郎氏にもこの頃よく逢わした。
その後同氏にすすめられて、
文学の研究会を開いた事があった。
この時の氏は誰が欠席しても氏は欠席しなかった。
黒化社の、深沼火魯胤君もやはり同市で新聞記者をしていたので、
互いに親しく成り初めた。僕はこれらの間に愚劣な詩を書いていた。
 

学校を断念した代りに、
いわゆる二十才的勢力で
手当たり次第本をあさり読んだ今、
東朝の記者をしている山崎晴治氏など先輩として
読書会もつくられた。


僕は極端にこの頃無口で
づい分したしい人の前でないと口をきかなかった。
喋ると語調が激したようになるので、一層無口でいた。

今思えば、二十才頃、何が自分にあったろう。
思い出そうとしたって何もある道理はない。
すべては毛のはえかからんとした二十才の頃の
体臭のようなごっちゃな、むし暑くむんむんしていた頃だった。

ただ、何者かを独でウンウン持ち上げてゆこうと云う勢力が
それらの裏付けをして、
見るに堪えない文学的青年から幾分でも救っていてくれたと思う。
然し、この私の「物の判らない熱心の余りのキザさに」
自分は何も今赤面する必要はないと思う。
今も、あの頃と変らない部分がないとは、
云い切れないからだ。
然し、断るまでもなく追憶的廿醉と云うようなイヤなものは、
絶対に持ちたくないし、
また幸なことには何等の追憶的なる「出来事」も持っていなかった。



2004年記 
 
萩原恭次郎を深く知るようになったのは
5年前であった、
1999年にある詩人に同行を求められ「萩原恭次郎生誕100年展」を
訪れてからであった。
恭次郎の生誕地、前橋に至近の高崎市郊外にある
土屋文明記念文学館で開催されていた。


2003
年の晩秋、前橋に向った。
北関東を訪れるのは展覧会以来であった。
前橋市内からは北を望むと赤城山がくっきりと姿を現していた。
萩原恭次郎の墓碑訪問。

その日、
1122日は萩原恭次郎の命日であった。
1938年に故郷の前橋で病死した萩原恭次郎が
今でも世間に少しは知られているのは詩集『死刑宣告』の著者としてであろう。


 そこからアナキスト詩人として、
あるいは晩年の国家の側に立つ詩を発表したことにまで
関心を向けるのは限られた読者である。

生誕
100年展が故郷の群馬県立の文学館で
開かれたのは当然であろうが
その企画には当時の館長であり恭次郎たちと同時代、
詩人として活動した伊藤信吉の存在が大きかったといえる。


伊藤が編集し恭次郎も寄稿したアンソロジー詩集が
『学校詩集』というタイトルで
1929年に刊行されている。
高村光太郎の詩も収載されている。

 高村も北関東の地に愛着をもち赤城山を好んでいた。
19291016日、赤城登山で前橋を訪れている。

「逸見猶吉、草野心平等の詩人たちと登り、
猪谷旅館泊、萩原朔太郎が前橋駅まで迎えに出る」と
前橋出身の伊藤信吉は回想している。


『逆流の中の歌』
197710月刊、泰流社。


 詩人たちが赤城の何処に登ったかは定かではない。
高村は後に『赤城画帳』という詩画集を残している。
西山勇太郎編纂、高村もまた渓文社に協力した詩人の一人であった。
神谷は『断片』表紙タイトルの書き文字の
仕上がり具合を高村に見てもらっている。
竹内の詩集タイトルの幾つかは高村の筆になる。


恭次郎の墓は当時の市外である利根川を越えた石倉の寺に建てられていた。

 恭次郎は中学時代からの詩作で赤城山に触れてきた。


恭次郎の墓所からも赤城山は望めた。
風は強く切花が揺らぐ。
黒檜山の風はさらにきついのだろうか。
交通の便次第で、赤木連山の一つ黒檜山に登るつもりであったが
前橋駅までは電車のつながりが悪かった。

 

恭次郎の最初の『死刑宣告』は再版までされ評判になったが、
恭次郎自身の生活はその後も余裕は無かったようである。
また直後から実際のアナキズム活動に関わり、
続けての「詩集」刊行の余裕はなかったと推測する。

 
恭次郎はそれぞれが担当する部分で力を発揮することが
最良の作品をつくりあげると確信していた。


「………病めるT君の『叛く』は
前橋と八王子の第二社で出来上がり、
矢張り『移住民』同様、南方詩人社で批評とよろこびの号を出した。
…作者個人の意志のみでなく、
彼等が集まっているグループの人々の意志が、
それを促して出版の運びに至らしめているのである。…………………
1931.1


 病めるT君とは竹内のことである。
生活領域、地域が離れていても相互に助け合い
小部数の出版活動が成立していた。
この論文はすでに立ち上がっていた渓文社の
活動にも誘発されて書いたのであろうか。

 

渓文社

設立から数年時の広告がアナキズム系労働運動の機関紙に残されている。

「自分らの手でよいもの私達のものを出版してゆきたい」


広告『第二曙の手紙』(『自由連合新聞』661932110日発行掲載)

当初からの出版活動の方針を維持していた。

1928
年 『銅鑼』5月 
第十五号
1928.5.1 活版印刷 前号に同じ


木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わる 3月 2月 


一二号は19279月刊

M・マルチネ(尾崎喜八訳)、三野混沌、森佐一、カ
アル・サンドバアグ「シカゴ」(草野心平訳)、高村光太郎、碧静江

草野心平「子供の天真性に就いて(現代学校の起源と理想)第十五章」
(フランシスコ・フエラア)


第十六号 活版印刷 発行所・東京市外杉並町字成宗34 銅鑼社 
カアル・サンドバアグ「嘘ツキ」(草野心平訳)、
レオン・フェルト(尾崎喜八訳)

岡田刀水士、碧静江、三野混沌、猪狩満直、
竹内てる代、小野十三郎、森佐一

評論 神谷暢訳「革命を圧服した力」(エムマ・ゴールドマン)


1928


8月 麻布天現寺の下宿「福生館」に移り住む、
慶応の学生だった金井新作の下宿、夏期休暇で沼津に
金井が帰省している間、向かいに小野十三郎の部屋があり、
土方定一も一時住んだ。

恭次郎の送別会と繋がる(草野の回想にはない)


9月 逸見猶吉、大江満雄などがよく「福生館」に現れた

同月坂本七郎のすすめで前橋市神明町に転居


12月 『学校』創刊


1929年 

2月 草野心平、伊藤信吉らと安中町に遊ぶ。 


1929

第二号1929.2.1編集、北山癌三(草野心平) 
印刷、草野心平 発行、横地正次郎

三野混沌、尾形亀之助、草野心平、竹内てる代、芳本優子、
黄瀛、ヘルマン・ヘッセ(尾崎喜八訳)、神谷暢、伊藤新吉、伊藤新吉


第三号1929.3.1編集北山癌三 印刷、伊藤新吉 発行横地正次郎

エミール・ゥェルハアレン(高村光太郎訳)、
カール・サンドバアグ(草野心平訳)、
岡本潤、竹内てるよ、三野混沌、、
小森盛、山本一夫、神谷暢、尾形亀之助、
岩瀬正雄、坂本七郎、佐藤英麿、半谷三郎、
大江満雄、草野心平、伊藤新吉、小野十三郎、杉山市五郎、黄瀛


第四号1929.4 編集、草野心平 
印刷、伊藤新吉 発行、横地正次郎、神谷暢、
小野十三郎、逸見猶吉、岩瀬正雄、竹内てるよ、
岡本潤、碧静江、金井新作、伊藤新吉


第五号1929.5.5印刷、伊藤新吉発行、横地正次郎 編集、草野心平

萩原恭次郎「トンネルの中を動いている汽罐車」「断片1 2」、
伊藤新吉、高村光太郎、小野十三郎、
岡本潤、尾形亀之助、吉田一穂、竹内てる代、三野混沌


1929

4月『黒色戦線』4月号
第一巻第二号「或る婦人参政権論者への手紙」
お送り下さつた『婦選』ありがとう…


1929

5月『黒色戦線』5月号第一巻第三号「母さんあなたは生きていますか」

5月『叛く』刊行 


5
月 『第二』第四号 
1929.5 発行所・東京府下八王子市子安町78子安館内・第二発行所 
おもちやの馬 詩 竹内てるよ 


6
月 『第二』第五号1929.6 
短信──「異邦児」の作者へ 詩 竹内てるよ 


7
月 『第二』第六号1929.7 二人 詩 神谷暢 友愛 詩 竹内てるよ 


7
月 『学校』第六号
1929.7.10 
東京市外渋谷神南8 市川方 
発行・編集・印刷横地正次郎、伊藤新吉 小野十三郎、
金井新作、岩瀬正雄、竹内てる代、坂本七郎、
神谷暢、萩原恭次郎「断片三篇」、草野心平「詩集『叛く』評」


9月 『第二』 第七号1929.9 
答へ 詩 竹内てるよ 


10
月 『第二』第八号1929.10

第二夕暮の詩 詩 坂本七郎 曙の手紙 竹内てるよ 


11
月 『第二』第九号1929.11.10 
ぼく達は戦ふ 神谷暢 思ひ出 詩 竹内てるよ


12
月 『黒色戦線』12月号 第一巻第七号


 萩原恭次郎と小野十三郎の詩に挟まれて、
岡本潤の詩 〈ゲルさん、意を安じてくれ〉
「…竹内てるよは病気がひどくなるのに反比例して
いよいよ健康な闘志を輝かせている…」、
金井新作と一人おいて竹内てるよの「それは偽りだ」







スウバリューヌの好きな人  其の二

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題字 高村光太郎筆

 竹内、高村光太郎の回想
「文通することやがて二十年、先生は上がりまかなに手をついたわたくしに、おゝしばらく、といわれて、はつとされ、あなたとは初めて逢うのでしたねと、そのことばを訂正された。」「そのやゝ面長なお顔を、若い一すじな人達の方へむけて静かに、にぎやかに、飲んでおられた。私は思い出す。その頃、神奈川県と東京都との中間にあつた私の家で──その家は六郷川の川原にある土手の下になつていた。よくコスモスが一杯にさき、そして川にはいつも少し風があつた。私はいついゆるとも知れない病床にいたし、私とその年、一緒に生活しはじめたKという友達──この人と私は今も親密に交際している。──Kとその時丁度前橋から上京して来たH氏と二人で、本郷の駒込にあつた先生のお宅へたずねて行つたことがあつた」

 恭次郎も当時の竹内の生活を詩で表現している。

あんまり考えるな──ある女の像
1930年3月
『弾道』第一号1930.3
小野十三郎、岡本潤、萩原恭次郎、竹内てる代、金井新作、局清、猪狩満直、小森盛、坂本七郎 萩原恭次郎「技術についての問題」

11月
『弾道』第六号1930.11.15
「北緯五十度の仲間へ」高山慶太郎、岡本潤、植村諦、小野十三郎、竹内てるよ、局清、鷹樹寿之介、鈴木靖之
1931年9月 『明日は天気だ』渓文社刊行
1932年10月 翻訳「二人は斯うして死んだ(新刊『サッコ・ヴァンゼッチの手紙』より)「渓文社月報」10月

 竹内はこの時期の草野心平を回想している。
「わが二十代の日は」
風は空に荒れていた
すべての鳥やけものが穴に入つても
人の子は枕するところがなかつた
さまよいゆけば 石炭がらの街に
夕陽はあかく波を打つていた

わたくしたちは 夢みていた
友達のやきとりやの屋台の燈が
みかんいろにコンクリートにこぼれていて
よごれたのれんから ひげずらがのぞいた
「やろうぜ」と合いことば

やきとりやは きようも赤字ばつかりで
友達の中に腹のくちいものはない しかも
「やろうぜ」こそ合いことば

友よ 思い出そう 昔の日を
おたがいは もつと親しくもつと烈しく
友よ 思い出そう 二十代の日を
そして 再び立ち上がろう いまこのとき
「やろうぜ」はいまいちど合いことばだ

1934年1月 『宮沢賢治追悼』(次郎社、渓文社発売)編纂

 1929,30年の六郷町時代にはクロポトキンの学習を中心にした雑誌『相互扶助』が、謄写刷りにより第二号まで出されたという。そして竹内てるよ詩集『叛く』(改定増補版、題字、高村光太郎)、竹内てるよ隋筆集『曙の手紙』(題字、高村光太郎)がまず刊行されている。

 竹内は1930年創刊の『弾道』(小野十三郎、秋山清発行)にも詩を寄稿(創刊号、6号)。同誌への寄稿仲間で八王子に住んで居た坂本七郎は六郷の竹内と神谷の家をしばしば訪ねたという。彼もまた渓文社のよき協力者であった。坂本は『弾道』2号に竹内を主題にした「第三夕暮の詩」を寄稿。

 坂本自身は1929年、謄写刷りで60部前後の印刷、同年に9号まで発行していた。坂本は技術者であり放浪の人であった。
「……坂本七郎が静岡で芝山群三、杉山市五郎らと雑誌『手旗』を創刊したのは1928年6月頃であったが、この前後から1932年ころにかけての坂本七郎の地図は、大阪、静岡、前橋、八王子、名古屋、甲府、水戸と移動している。この間にそれぞれ東京がはさまっているのだから、5年間ほどは生活の拠点というべきものがなかったわけである」と伊藤信吉は前出の本で語っている。

 坂本は恭次郎とも親しかった。「思い出断続」より 
 「………その年の大震災後、駒込千駄木蓬莱町の大和館で、はじめてわたしは萩原恭次郎に会ったのだが、そのときは、お互いに、ニラミ合っただけで、ろくに口はきかなかった。」「恭次郎はわたしの第一印象を<バクダンを抱いているような男>と横地に語ったという。わたしは一目で恭次郎が好きになった」
 アナキズム運動に関わり、近かった詩人たちのあいだにはこのような交流が成立していた。坂本は『断片』の批評を執筆している。

「八年前、詩集『死刑宣告』が出た時、人々は驚動して《これこそ詩のエポックである!》と叫んだ。八年後の今日、われわれは一冊の『斷片』を手にして、これこそ真に生活し行為する者の革命の書であると叫びたい。五十九の斷片。…著者の、ぎりぎり引きしぼる発矢である。……」
五十度の斷片──萩原恭次郎詩集「斷片」を読む
 
 全59篇にわたり、恭次郎の近くにいた坂本ならではの「断片」の読み取りを著している。
 坂本の個人詩誌『第二』は謄写版刷りでわずか60部の発行、復刻はされていないが、いくつかの文学館の所蔵を合わせると九冊、全号を閲覧することはできる。掲載詩は他誌への転載もあり、目に触れられているが坂本自身の編集記はこれまで引用されることもないので紹介しておく。

 『南方詩人』の今度は、竹内てるよ号にする相ですが非常にいいことです。彼女の詩集に就いては『学校』六号で草野が二頁書いていますが実に適切な文章で、私は読んで、自分の言いたいことをすっかり言って貰ったときの歓喜にうたれました

 続いて、尾崎喜八が竹内の詩の批評を書き、自著を出版し寄付するということも記されている。

 もう今夜は一時に近いようです。信州からの上り列車が、今八王子駅に着いたようです。駅夫の呼声がします。蚊がひどいのと、さすがに少し疲れてきましたから、それではこれで筆を止めます。どうか、元気で働いて下さい。(八月十三日)

 後記的に B 二つの詩集と五つの雑誌、猪狩満直の『移住民』と竹内てるよ君の『叛く』に就いては『第二』なぞで言う必要もなく云っても大した広告にもならないと思うけれど、『叛く』の再版(活字版による)は是非とも実行したいと思う。そしてその売上げ(この言葉はむしろ楽しい)をみんな竹内君の食事や注射代に出来たらどんなにわれわれは本望だろう。………>

 草野がガリきりをした謄写刷りの『叛く』は在庫がなくなったのだろう。謄写印刷のすり部数は限られている。原紙の状態がよくても二百、三百部が限界であろう。また用紙代もかかるであろうから発行部数の制約はあった。

 今夜は雨も降って来たし、役所の(水道事務所)宿直部屋の電灯は実に暗く、時計は十時を報じているのでどうしても性急にさせられる。書きたいことは沢山ある。第一にいつも原稿を送って貰ってもろくなお礼も返事も出せない詫び。竹内君の病状の報告。今日来た神谷君からの便りによると《…竹内君も「きっとよくなる」と言っている。歩くけいこをしている。野菜を買いに行った帰り富士を見たので竹内君にその話をしたら『山がみたい』ときかないので、手をひいて土手まで出た、そしたらてるよ君はうれしそうにきよろきよろ見廻して涙ぐんでいた》

というようなことが書かれてあった
…それから、十号は今年中に出したいと思いますから、どうか書いて下さい。それからあなたの親しい真実なお友達でこの雑誌を見せたいと思う人があったら知らせて下さい。今、丁度六十人の仲間にわけています。いつも一部も残りませんので折角云って来られても送れないことがありましたが、先に云って下さればその分も刷ります。それでは、どうか元気で、くれぐれも御健康で。僕も頑健で仕事し勉強しています。一九二九、一一、六 夜記


とある。結局この号が最終で10号は出されなかった。
『第二』の終刊を引き継いだわけではないだろうが、印刷の技術を一定習得した神谷と同志竹内の渓文社は翌年から本格的な出版活動を始める。


 竹内は恭次郎の個人誌に寄稿している、
1932年6月
『クロポトキンを中心にした芸術の研究』
萩原恭次郎 前橋市外上石倉自家版、謄写印刷
第一号1932.6
詩 伊藤和(<馬事件>で投獄された経験を表現)、吉本生、小林定治、萩原恭次郎「もうろくづきん」
評論 小野十三郎「作家と民衆との接触に関するクロポトキン並びに我々の見解」、坂本七郎「芸術の社会性の研究」
消息記事 「千葉県に於ける雑誌『馬』の同人である両君の秘密出版、不敬事件。伊藤和君、懲役2年(4ヶ年間執行猶予)。田村栄君、懲役3年(東京衛戍監獄)。伊藤君の証人として萩原恭次郎、田村栄君の証人として神谷暢、呼び出された」「草野心平君、ヤキトリ屋……」「岡本潤君、平凡社にいる」「坂本七郎君、失業中」「竹内てる代君、病気依然重し、気でもっている、『第二曙の手紙』出す」「神谷暢君、無政府主義文献出版年報出版(発禁)」

10月
『クロポトキンを中心にした芸術の研究』第三号1932.10
詩 鈴木致市、秋田芝夫、伊藤和、竹内てる代
1933年秋、群馬出身のアナキスト系詩人で萩原恭次郎と交流があった吉本孝一が渓文社で働き始める。

 吉本は42年日立亀有工場時代、竹内の著作日『灯をかかぐ』を仲間たちにも薦める。(「日立亀有工場時代の吉本孝一」秋葉啓
『吉本孝一詩集』収録、1991年12月発行、寺島珠雄編、「吉本孝一詩集刊行会」刊) 

 1934年には渓文社の活動は止むが竹内の詩作活動、童話執筆は続く。 

断片58
子供よ/俺達は黙つてお前のふくらんだ目のあかいぶよぶよの/顔を見乍ら暖めてゐる/厳寒の底におれ達は春のやうに燃えてゐる/膝の上にお前達を両手で抱き擁へてゐる/眠らない俺達は何を見つめてゐるのであるか/俺達は飢ゑにも弾圧にも生命がけな今日を通してゐるのだ/勿論 おれ達は名も無い/よし死んでも殺されても棺の上に剣も帽子も勲章も乗らない/また旗で巻かれる事も新聞に書かれる事もあるまい/毛のついた帽子 腰にサーベルを光らせた者共より懺悔と悪名とを受けるだろう/だが黙々たる俺達の無名はそれを笑ひとばすだらう
子供よ今日 我々はお前を抱いたまま何よりも強い慈母となり不退転の勇士になつてゐる/今日の道は必ず明日へつづく。

恭ちゃんの死 1938.12.25 『上毛新聞』  小林定冶

 萩原恭次郎氏が死んで早くも一ヶ月になる。淋しさが一層増して来た。あの当時は私には恭ちゃんの死をピンと感じられなかった、幸か不幸か恭ちゃんの死の枕頭に友人としては私がたつた一人であつた。…
 …それから十八日には東京の友人によつて新宿武蔵野会館隣の翼亭で追悼会が開かれた…
 先づ恭ちゃんが一年以上も胃潰瘍に似た病気を病み続けて好きな酒を殆ど飲まなかったこと、その挙句死んだ月の十一月はじめから神経痛を病み以来床に臥せったままであったこと、それから二週間もしてだいぶ悪くなって来たことなどを話した、だがまだその頃われわれの間ではまさか神経痛で死ぬなどとは誰一人思っていなかったこと、その中に見舞いに行った人達の話で段々悪くなって行くのを知って、これはいかんと廿一日夜八時半ごろ仕事を済ませて見舞いに行ったこと、その時既に弟の恒巳さんの血百グラムを輸血した直後で、四人の医師が立ち寄っていたこと、土間で呆然としていた私が奥さんに招かれて枕辺に座った時私は一層これはいかんと思った既に顔色は蒼白となり呼吸困難で医師の顔にもあきらめを見た、……
 それから四時間後の廿二日午前零時十五分ごろ左手に奥さんと長男宏一君の手を、右手に私と次男の手を握りしめたまま静かに死んで行ったことなどを語った、病名は溶血性貧血というのであったが四人の医師がそれを決定するまで相当頭を悩ましたらしいこと……

 出席者は石川三四郎老をはじめ新居格、中西悟堂、高橋信吉、北川冬彦、岡本潤、草野心平、伊藤信吉、横地尚、金井新作、
壺井繁治、局清、その他の人々で三十余名、萩原朔太郎さんや福田正夫は病気で出られないと手紙をくれた。……(師走二十二日)

静かなる片言 吉本孝一                   
──故萩原恭次郎ヘ──

大きな青い流れに沿って
監獄のある街であった。……

「ジェルミナール」のスウバリユーヌの好きな人であった。

長い髪。蒼白い頬。冷たい眼鏡の底に光る眼。高い背。たくましい肩。
しかし、スウバリユーヌに似てなぜか寂しかった人よ。

底に真赤な葉鶏頭も咲き、鶏が餌をあさってゐる。
藁屋根の下の書斎で、
わたしは人生の愛することと愛されることをそこで始めて学んだ。

酒を飲むことや女を買ふことも教えてくれたが、
真に倫理的にして社会的なる情熱を教へてくれた友よ。

上州の風は寒く、
激して利根の大橋をステッキもて叩いた夜。

酔って唄った寂しさも、
あのころのわたしは若く、ほんとに理解してゐたらうか?

げんげ咲く春の野みちを子供をつれて散歩しながら、
あなたはあれを唄ひたいと言った。
そこにある県下一の製絲工場。
その生理と病理を。

その工場よりも大きいこゝの工場の塀の下を歩きながら、
わたしは時々その遠い日のことを思ひ出す。


竹内の萩原追悼の詩「木いちご」



竹内てるよに就いて  萩原恭次郎 
 竹内てるよに就いて──竹内君から話があった。 
 僕はぼく等に対して、何等関係を持たぬ話はやりたくない。関係のある限りは幾らでも語りたい。竹内君一人のみに限った話ではない。万事バンタンである。 
 竹内君に対しては現在に至るまでも、相当の話題となるべき材料があるので、小さな会合から講演会に於てまで語った事がある。彼女の辿つて来た道は、よくわれわれの行く道の上に正しい足跡を、現実の面に於て示して来たからである。……… 
 竹内てるよが今後生きる道は、一プロレタアとしてわれわれ万人に通ずる道を辿る事に終始するであろう。彼女は貧しくとも病むとも、最も深く手を握り合った人々の中に、一個人として、また社会人として真なる勝利者として、その苦闘をよろこびに代へて生きるであらう。 
 彼女の最近の一つの詩(『盆地』第二号所載)を引かう。 
てるよと云う名はいつも 
不幸のどん底にのみつらなった名であった 
無心状や遺書や借金の申しわけや 
かつて親子自殺者の名として新聞の三面にのるべき名であつた 
(中略) 
戦ひのためにやつらに送る 
全世界なる私達の血書 
そのはしにこそ死をもつてつらなる名前であれ。 
と歌つている。詩として、在来の感覚のみを主として詩の立場から論ぜられる場合、この言葉は詩と云はれないかも知れぬ。然し、これらの強い意識的な文字も、われわれは立派な詩の一つとして数へる事が出来る。とも角、詩人としても彼女は愛され得るに足る詩人である。 


 ここからは引用
秋山 ………… ところで渓文社はたった二人だけ、ということじゃないんだろ。   
神谷 六郷のときは難波君というのがやってくれた。赤堤に移ってすぐ、高崎から吉本孝一ってのが来てくれた。内気なようなやつで、仕事のないときは「赤城の子守歌」ばかりうたってたよ。それから国鉄渋谷駅の改札口にいた木村秀夫が止めて来ていっしょになった。いや、それより前だが、一時西山勇太郎の家に印刷機械を置いて、そこに通った時期がある。恭次郎の第二詩集『断片』はそこで刷ったんだ。活字は家で組んで、刷るために通ったんだ。   
秋山 赤堤にいち度、植村と寄ったことがある。家の中に活字が並べてあった。 ……… 
神谷 西山勇太郎は渓文社の大シンパだよ。恭次郎の『断片』も彼のところで刷った。 
赤堤で知り合った天理教の家の一遇に機械を移してからも金の工面や何かよくやってくれた。 …… 
秋山 …… ところで渓文社はいつまでやったのかね。   
神谷 昭和9年、フランシスコ・フェレルの『近代学校』。あれが最後打。差し押さえに来て持ってかれた。 発禁になってさ。今はどこにもないだろう。   
秋山 オレがもってるよ、見せようか。 …… これだろう。   
神谷 昭和 9年5月20日発行になってる、訳者は渡辺栄介、これ遠藤斌だよ。 


『低人雑記』
首夏、六月ともなると、けふの額に頚に手に、全身的にといへる位ゐに汗が滲み出る、うだるような蒸暑さにはほとほとまいってしまったが、夜業が終へ九時過ぎにもなると、だいぶしのぎよくなってきた。わたしは、いま、座蒲団の上に腹這ひになってゐる。右側には泡盛の入ったビール瓶が二本ぶったってあり、わちしはグラスでアワをちびりちびりやってゐるのだ。紙屑とタバコの灰と新聞紙と万年床と本と埃と乱雑極まる部屋(流石の辻潤氏も閉口頓首されて、辻氏自身が掃除をしようとされたので、それを断るに骨折った思ひ出があり、ガサに来た特高氏があまりの物凄さに茫然として足を踏み入れるを亡失したことがある。実に因縁、故事来歴のある部屋なのである)から退去したのは五月中旬であった。この新しい部屋に居て考へてみるに、障子は破れ、天井からは煤がたれさがり、ところどころにある蜘蛛の巣には虫の死骸がぶ゜らさがってゐ、このところ二ヶ年ばかり箒を入れたことがない、埃とゴミと綿屑とが氾濫してゐる部屋の中で、空気を吸ふてゐたわたしは実に心臓がない位ゐなものであった、と思ふてゐるのだ。

寺島珠雄編
(2)『無風帯』西山勇太郎と吉田欣一
 この『無風帯』は東京発行、不定期の薄い個人誌で、戦中にはあったそれを失って久しいが多くても三十二頁、そんなものだった。編集発行は西山勇太郎。
 私は西山勇太郎に深く恩恵を受けた一人なのである。西山は一九〇七年(明治四十)、吉田は一九一五年(大正四)、私は一九二五年(大正十四)となる。そして私が西山を知ったのは一九四〇年、西山がやはり個人誌で、これは自筆ガリ版による『色即是空』を創刊して間もなくであった。そして『色即是空』は吉田作品二編を掲載した『無風帯』の後継誌なのだった。西山は 吉田作品「生活」を載せた『無風帯』第6輯は一九三五年十月発行だが、次の第七輯は一九三七年五月発行である。不定期とはいえ約一年半の間隔が置かれたのは理由あってのことだった。
 一九三五年十一月に存在が発覚してアナキストの総検挙となった無政府共産党事件、およびその波及から別個に追求された農村青年者事件であり。ともに治安維持法違反等。太平洋戦争直後の一九四六年二月、アナキスト連盟の準備活動が朝日新聞に出た時、誌上の近藤憲二、岩佐朔太郎、植村諦、岡本潤、秋山清、二見敏雄の名について、西山は私たちの雑誌『ぶらつく』3号にこう書いた。

 「自分にとっては実になつかしい人たちの名をあげて(朝日新聞)報じています。(略)老人!岩佐作太郎氏には自伝「痴人の繰言」を自分は『無風帯』に寄稿願ったことがありましたが、それも第二回だけで中断したのでした。しかし、今でもあの当時の自分の<考え>を変更しては居りません。これ等の人達に、<黒色事件(昭和十年十一月)以後、自分はお目にかかってはゐませんでした」黒色事件とは無政府共産党事件のことで、西山は党に無関係だが検挙された。さらに農村青年者事件では、後に下獄させられた幹部のうち数人と西山は親交していた。 
 長々と引用してまで私が言いたいのは、西山勇太郎という人物がいささか異色ながらまぎれもないアナキスだったこと。そのゆえの検挙で『無風帯』が吉田作品「生活」掲載第六輯(検挙一ヶ月前の発行)をもって休刊状態に入ったことである。

 事実、無政府共産党・農村青年社の両事件によって、当時アナキズム系文学の全国機関誌の観があった月刊『文学通信』をはじめ『詩行動』『反対』の雑誌はすべて消滅した。西山の『無風帯』もそうした範疇にあったので、極く近い過去に詩を二回発表している吉田にしても、それを口実とする検挙があっても不思議ではなかったのである。中部地方の詩人で検挙されたのは浅野紀美夫、ほかに『豊橋文学』関係の数人がやられた。
 
 ところで『無風帯』だが、約一年半を消滅同然に休刊したあと、一九三七年五月に終刊第七輯を出している。息をひそめていたのがまだ生きていると頭をあげ、これで死ぬぞと宣言した感じの終刊である。そして終刊には辻潤特集を組んだ。西山をいささか異色という一つは、アナキズムに近縁する面は見られてもまったく運動にかかわらなかったスティルネリアン辻潤を一方の師として一ヶ月も西山の部屋に滞在している。

 西山の部屋と書くのは、小学校卒業で木村鉄工場の徒弟奉公に入った西山が大患ゆえに事務員に転じたのちも独自の住込みをつづけたからで一九六七年に長野市で死ぬ十年ほど前まで西山は木村鉄工場住込み独身生活だった。

 私もその部屋に何度か行き、辻潤のいた部屋を見回し、手動印刷機を置いて萩原恭次郎詩集『断片』を刷った部屋と溜め息をしたのであった。住込みだから西山は木村鉄工場から三食の賄いを受ける。その賄いの食数をもちろん自分負担で増やして、滞在する辻、萩原詩集の印刷に毎日やってくる渓文社の神谷暢などを援けたのである。新宿のやきとり屋時代の草野心平も木村鉄工場の賄いを食した。

 西山勇太郎の異色ぶりを説きすぎている自覚はあるが、そういう人物と吉田欣一が、たとえ一時にもせよ、結びついていたことの不思議、おもしろさを考えるとこうなってしまうのだ。しかしもうやめねばならない。

 今私がはなはだ残念なのは、吉田の『わが射程』が出たあとで、この話題、西山編集発行『無風帯』に吉田作品二編がなぜあったのかを秋山清との間に持ち出さなかったことだ。詩論集会に私は欠席したが、自分一個の興味でいえば、詩は自分のために書くという自然のりを蝶々するよりも、そんなところの会話をしたかった。私のうっかりで、生前、元気な秋山に(岡本潤にも)西山・吉田の話をしなかったことを悔いている。

 その秋山が西山勇太郎を語った短い引用をして終わりとしよう。

神谷暢との対談(ききがき『渓文社』)の秋山発言の一部である。
「(西山は)代償をちっとも求めずに頼めば何でもしてくれたね」

 西山勇太郎、一九〇七年東京生れ、一九六七年長野で死去。著書『低人雑記』
一九三九年無風帯社刊。個人誌『無風帯』全七冊『色即是空』全十冊。ほかに戦後版『無風帯』および『無風帯社ニュース』。編集に高村光太郎『赤城画帖』一九五六年龍星閣刊。


 2011年6月17日メモとして追記
『ぼうふらのうた』大木一冶  寺島珠雄事務所復刻

「歪んだ自画像  西山勇太郎さんえ」
が収載されている


萩原恭次郎詩集『斷片』序詩

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序 詩


無言が胸の中を唸つてゐる 
行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙つてゐろ 
腐つた勝利に鼻はまがる

 

萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 1>

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<断片 1>

乳は石のやうになつて出ない

一かけのパンも食べない子供等にかこまれて

目の前に迫つてゐる敵の顔をじつと見つめてゐる母よ

あなたは涙は出切つた

あなたは別の人になつた

あなたは戦ふ人になつて行く。

  ×

あなたの夫と子息達は

長い間どつかで

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死の狂ひの戦ひのため歸つて来ない

熱情と勇気と正義の長い戦ひが

彼等を歸さないのです

だが 彼等は必ずやりとげて

あなたの胸に歸つて来る

深く深く抱かれに歸つて来る

勝利か

死か

あなたは最も愛する者の手を胸を頭を抱いて

最も愛する者の手になれる幾多の報知を受取るでせう

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母よ

あなたこそその勝利に涙を噛み血を噛む人だ。

  ×

 

私達はあなたの子供でなくて何んだ

私達はあなたの愛でなくて何んだ

私達はあなたの闘ひを継ぐものでなくて何んだ

我慢が出来なくて

夫や子息の火と血の中に

一緒になりに

幼い弟妹を背負つてゆく母よ

おお 世界は

この朝 深呼吸と黙礼をする

私達は整列する

私達は辛苦をこらへる歌を歌ふ

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私達は押し進む歌を歌ふ

この無数の我等が

母よ あなたの子供でなくて愛でなくて

闘ひを継ぐ者でなくて何んだ。

 


萩原恭次郎詩集『斷片』<断片>2

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<断片 2>

旗は風になびけ

今までにない力強い無言の中に

旗は風になびけ

今までにない無言の中に旗は立てられて進め!

 

萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 3>

<断片 3>

子を負ひ街上にビラを持つて立ちし妻よ

富者の歌はいんざんに虐殺の黒い凱歌を上げてゐる

熱愛のひそんだ銃弾の響きを我等聞かう

妻よ
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萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 8>

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<断片 8 > 

大空には鉄のブランコが戦(そよ)ぎを止めて輝いてゐる 

秋は強い狭窄器に絞め上げられてゐる 

我等は歌を歌はず単独に散つて 

我等の行く道を見つめる 

秋だ 銅牌のやうな木の葉は散る 

散れ 

道なかばに倒れて行った仲間の顔が 

木の葉になつて散つて来る 
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胸は打つ 

打て 

誰がこの感情(こころ)を我等以外に知らう 

自分は 又我等以外に知らう 

自分は 又我等の往く道は 

更に新たに行はれなければならぬ 

肉体よ わが認識よ わが仕事よ 

引きしぼれ! 



萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 12>

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<断片 12>

昨日の友も次第々々に別れて今日は敵となる

我々は益々少数者となり益々多数者の意志する所に近づかうとする吠えてゐるものにも 騒ぐ者にも 高い所にゐる者にも

静かなる無言の訣別をする

我々は嘲笑も叱咤も讃辞も知らざる仲間と共に我々の世界を明日に進ませる

今日 我々は必要しない言葉を聞く者も無ければ訊ねる者も無い


萩原恭次郎詩集『斷片』<斷片 20>

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萩原恭次郎詩集『斷片』<斷片>23

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萩原恭次郎詩集『斷片』「斷片」35

斷片35

萩原恭次郎詩集『斷片』「斷片」36/37

斷片36:37

萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 49>

<断片 49>

その部屋には机が一つあつた

イースト ロンドンの貧民窟の屋根裏である

昼はロンドンの街々を歩き廻つてレモン水を売つて生活してゐるマラテスタのための机が一脚あるのだ

ロンドンの煙突と煤煙と汽笛が部屋の中をつまらせてゐる

窓の側をあぶれの労働者がつぶれた鳥打を冠つて通つてゐる

マラテスタは夕食のパンを焼かずに食べてゐる
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イタリーの革命新聞のため毎夜白熱的論文を書いてゐるのである

フランスの監獄から逃亡して来た身をこれからイタリーへ変装して潜入しようとしてゐるのだ

マラテスタはいつ見ても同じ元気の顔をして

繰り返しの投獄

ギロチンに引き廻される宣告

××

それのどれが真先に自分をとらへるか氣

そのどれへも腹を据ゑて

明日 その渦中に身を没するマラテスタが屋根裏にペンを握つてゐるのである。

 


萩原恭次郎詩集『斷片』<断片 59>

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<断片 59>

僕は君が生れた時隣りの部屋で

夢中になつて君の母の苦しみを聞きながら原稿を書ゐていた

だつて僕はその時金が一文もなかつたからさ

僕は原稿を書き終へたら君は生れた

僕は原稿をポストへ入れに出ながら

わななく心を押へながら上野にゐる友達に金を借りに行つた

僕はアーク灯のぼんやりした公園の森の中を

声高々と歌を歌つて歩いて行つた

自然に僕は歌つてゐたのだ

僕は自分に氣がついてからも歌つた

僕は愉快でならなかつた

友は金と一緒におむつとタオルを渡してくれた

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みな玄関に出て僕を見つめてゐた

僕は皆の顔を見て笑つた

僕はその金でどつさり思い切つて果物を買つて

君の母の所へ歸つて来た

だが 君は生れて

父の生れた土地へも行かない

母の生れた土地へも行かない

両方とも僕達をきらつてゐるのさ

僕はどつちへも通知しない

然しそんな事が何んだ

君はここの所から出発すればいいんだ

何者も怖れるな

勇敢なるかつ誠実なる戦ひの旗を

僕は死ぬまで君のために振るよ。

 


『斷片』に対するメモ/奥付/表一

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『斷片』第四部

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『斷片』第三部


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『斷片』第二部

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『斷片』第一部

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