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枇杷の花が咲けば冬が来て春が来る

彼女製絲女工 前山フサ子は

(四肢健全にして森の中から生れたやうな肉軆をしてゐるが)

口紅の唇をまげて、居酒屋の二階に馬鹿の如く正座して酒を飲み

氷結せる天から

限り無く雪は青く冴えて地上へ積らんとしてゐる

工場區域の機械を藏してゐる新しい屋根屋根

勢多會館の割立つた面

比刀根橋の石造りの孤線

交水製絲の黒塀 活動館の圓屋根

  廣瀬川は雪足を青く吸って

  街の中央を流れ

冷たい大きな瞳でぢつとそれを見つめてゐるのである

電鐵の踏切りを 車は轟と過ぎはきだめの山は雪の下に

 (錆び釘や毛や……)

埋もれてしまつた麥畑と

工場寄宿舎と大煙突の下を曲れば

佐久間川は

各工場から吐き出される湯氣のため濠々たる白煙をふき上げてゐる

その蛹臭い匂ひを嗅ぎ乍ら

彼女は降雪の中に立つて

派手な羽織に白く雪を吹きつけて

懐しい仕事の匂ひを嗅いだのである

前橋の花柳病院から工場へ

藥瓶が届けられることは不名譽の事か當然の事か知らないけれ共 そのため彼女は二年間 鉛臭い白粉の女として生活した

今や 彼女はそれを脱走して来たのだ

昔の職業のみを職業と目ざして

工場の外で給料を借りに来た見知らぬ娘の父親と

お斷りを食つて出て來た彼女とぶつつき合つたので

實は雪だるまで立つてゐる老人と二人 この酒屋の二階に上つて酒を飮んだのであつた

古く寒く一人ぼつちの山の家(こゝから遠い)

爐邊 老婆と子供 燒いて食べてゐるきびの燒もち

町からのたとひ一枚の繪紙でも土産に待つてゐるのに無能に何一つなく歸る父親は

なだれる雪にはぢきとばされて崖に落ちねばよいが

自分の昔の姿も思ひ出されるので彼女は

その老人に酒をのませて歸したのであつた。

彼女は休むためめし屋に上つてあたゝかいうどんかけをあつらへる女中は誂へもせぬ徳利をはこぶ

一杯飮んで一杯彼女に差して下へ行く

彼女はやがてあぐらをかき

汚點だらけな茶ぶ臺 汚れてゐる火鉢に寄りかゝり髪毛をかき上げ乍ら酒を飮む

默るつて一人で飮む

終業の汽笛が鳴る

あちら こちらから

太く 高く

威壓的に

元ゐた○○工場の笛も鳴つてゐる

一日のよろこびの汽笛が鳴るのだ

このよろこびは 人と仕事をする者ののみよりわからない、仲間の無數の顔

 熱湯に煮へ乍ら何千と云ふ瀧のやうに糸枠に巻かれてゆく白い生糸

 浴場のお喋り 寄宿舎

 そこにも煮繭の匂ひがただよつてゐる、

 (男と二人だけで草汁の匂ひを嗅ぎながら

  夏の月夜の川邊で初めて言葉を交した夜)

ぞろぞろと歸る 街にひびく女工の聲、何百と云ふ下駄の音

この中に昔の仲間はゐても肩に手を掛け

乳房が大きくなつた話や

抜毛する話や

鹽鮭を貧しい弟達に買つてやつて泣かされた話や

南京豆でトロツコ遊びをやつた正月や

故郷へ五十圓の金を送つた夜の楽しい夢やを語る仲間はゐない

冗談にも一つの布團に寝ようかと云ふ仲間はゐない

見渡す限りの家々

寝せて呉れと云へさうな疊一疊もある家は見當らない

然しどつかに誰か一人位ひゐるやうな氣がする

幾つもの工場

頭腦も肺臓もめちやめちやに疲れ

(寂しいなあ 寂しいなあ)

身體中からさういふ聲がきこえて來るのに

哀しい二つの眼をしてまだ負けないで聞き歩いてゐる

彼女はある男達を思ひついて訪ねて行つた。

彼等は雪見酒を飮んでゐた

「まあ上れ

酒を飮まんか」

彼女は身ぶるひし

問答無用!

昔も今も同じの人間

チツクをつけた頭でもなでてゐ給へ

髭でもひねつてゐたまへ

ここで酒を飮んだらもう地獄の一丁目だ

歸つては來られない

彼女は知つてゐるのだ さうゆう男はゐないことを

また酒をあふり おけさを歌つた

夕暮れは次第に寒氣を増す

雪は小降りになる

彼女はまた歩き出す

男に逢ひたくなる 然し途中で止めてしまつた

職業がないといふ事實がこの世の中にある

何んといふ侮蔑!

笑ひはどんな苦しみの中からも湧くが

職業がなくては笑へもせぬ待つてゐる天上にある死神がつくつた布團

しかしもう春先を待つてゐる

赤い屋根の家

ひくい家

重なり合つてゐる家

ここに自由に寝せてくれる疊 一疊もないのか

寝ろ!

飯を食へ 山の木々を押しわけて杖を握つて神様でも出て來い

どなりつけるやうな頼母しい言葉はないものか

さうした弱い心になつてはならぬのだ

さうゆう救ひのある世界は神の白い白い純白の世界か

せめて酒のしづくを泌ませ

昔の思ひ出におけさを歌へ

寒氣は深く

木々は凍みて曲り

雪は小降りとなる

何故か未だ逢つた事のない知らない男に逢ひたくなる。

愛のかけらでも今は欲しい

身體中を死神が押へつけてゐるのだ

それから逃れたい

然し凍てついた世界の上をも

笑つて 自分一人だけでも笑つて 誰にも知られなくとも

ともかく笑つて行かう

職業ある者は幸ひだ

あなた達には棲家がある

彼女は歩いてゆく

電車線路も雪に見えないが、それを横切り 坂を上り

知事官舎の側から公園に出て 空の月を仰ぎながら人造繊維株式會社の雪を見ながら

利根川べりに立つた

空はさらさらと晴れ

月は河瀬に碎け

しかしもう春先をまつてゐる水気をいつぱい含んでゐる水樽

艶々しい幹は太く月に光つてゐる

彼女はその幹をただしつかりと握つてみた

彼女は水上を眺め

大鐵橋を眺め 夜空に聳ゆる赤城の山を眺め 自分の身體をつくづく眺め

譯のわからぬ聲で歌つた

どこも雪

雪の中に突き立つてゐる木立

眞白の雪の原に立つてゐる女

その中ではるか崖下の流れだけが彼女を呼び下してゐるやうであるが

彼女は歌をうたつてゐる

しづかに無心で歌をうたつてゐる

醉つた頭の中で、よろこびの反極から悲しみの反極へ振子のやうにゆれる思ひが歌つてゐる

そしてその歌は何時の間にか彼女の職場の糸挽歌を歌つてゐるのであつた

彼女の愛はその糸挽歌であつた