市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア

スウバリューヌの好きな人

赤堤の小さな出版社「渓文社」と詩人たち・第一章



ギロチン社の古田大次郎は処刑された。
恭次郎の詩に市ヶ谷刑務所を
面会で訪れたものがある。
「古田君が此処でやられたのだ」
と確認し追憶する。

 さらに面会所にはいり「建物の並立してる
一番奥の中央にあると言ふギロチンに
変な電熱を感じながら」と
処刑場の存在を感じている。

刑務所内は自由に歩けないゆえ
出所者から伝えきいていたのだろう。


市ヶ谷風景   萩原恭次郎


お偉い方々の眼には市ヶ谷刑務所も歪んで
変てこな存在として宙に聳える

俺達には帝国大学とそんなに変ってうつらない

各工場も各職場も各学校も
むしろ監獄より暗くいん惨と言へないか

物凄い分厚い灰色の壁

高々とめぐっている下を通ってゆくと
異様な悪臭と親しさと敬虔な心が起きて来る


俺の握った札は十一号で手ヤニに光ってる

控所には髪毛のバサバサした女の背でキヤラメルを
しゃぶり乍ら肩を飴とよだれでよごしている男の子供の赤い顔

断髪女おめかけさんらしい女 
男達のいろいろの眼が眺めている暗い胸を
面会にワクワクさせているらしく子供に語ってる女

俺は蝶や菊の花を愛していた古田君が
此処でやられたのだナと思っていると

何んだか古田君のお墓参りに
来た気がする


『十一号!』看守に呼ばれて入ってゆく

うす暗い金網の檻には襟に番号をつけたアキちゃんの
額がドアを開けるより此方を向いて立っている

『アア! よく来て呉れたナ 子供は達者か 
何時東京へ来た! 差入れ有難う……』

互ひの肩を叩くやうな気になって来る

檻の網の中まで手を入れて握りたくなる

にこにこ俺達は笑はないではいられなくなる

内と外との消息がどんなにつらい事も可笑しげに語られる

『面会時間終り!』

アハハハ…………

号令した看守がびっくりする程事もなげな笑ひが
期せず互ひに噴き上がった

言葉で語れない最大なものが胸底をうねった


他の泣いたり吠えたりしている面会所をよそに出て来れば

更に面会人の数は控室にあふれている

友を夫を兄弟をここに送って猶平然たる明るい顔と

すっかり沈み込んで絶望的な心配を描いてる顔と

雑然たる囃し屋連とだまりやと変ちきりんな革命歌の鼻歌と………

三等待合室とさうは変らない

高い何号舎 何号舎 無数の暗い室

ひばの木 受付のおやぢのもっさりした髯

鉄門 

真鍮の大きな紋章 

藤棚 

囚人の腰紐と看守の草鞋履き

資本主義が当然たれた血の黒くなった糞の一塊りを後に

かういう所へは初めて来此処へ来た時は
もう殺されるつもりで来たのが嬉しかったと言って
×された大ちゃんの事なぞを思ひ

決して資本主義はいつも甘いもんどころのものでない事を更に深められる

この建物の並立してる一番奥の中央にあると言ふ
ギロチンに変な電熱を感じながら

大きな大ちゃんの墓穴になった市ヶ谷を後に俺はだらだら坂を下った 


鉄壁を越えて来た白い蝶が俺の行く前をちらちら飛んだ。
何んの理由もないが

ちかごろ一度足を踏んでおかうと思っていた市ヶ谷……。

 




變らない人──萩原恭次郎氏に就いて         岡本治子

 

萩原さんとお知合いになってからもう
八九年位になると思います。……

 

 萩原さん、壺井(繁治)さん、川崎(長太郎)さん、
それに岡本
()と四人で『赤と黒』という
雑誌を出すことになり、滝野川のわたくしどもの家が
発行所になっていたので、
その人達をはじめいろんな人達がよく見えました。
多勢でお酒をのんでさわぐこともよくありました。
萩原さんは背が高く骨ぶとい体格ですが、
顔を見ると何んだか蒼味をおびて、
眼鏡の下でヘンにすわった眼が、
冷たい氷のような凍味を感じさせる人でした。

 それにいったい無口な方で、
みんなで何かしら激しい議論をしている時でも、
萩原さんだけはひとりで
沈黙をまもっていることの方が多いようでした。
机龍之介型とでも云いましょうか──
そういった風な妙に冷たい感じを与える人でしたが、
先だつて久しぶりにお目にかゝつた時には、
あの頃から見るとよほど柔らいだ明るい
それよりもあたたかい感じを受けました。…

 



萩原のプロフイル                小野十三郎


 萩原と云うと世間ではなんでも
喧嘩早い乱暴な男のように考えている。
ところが実際は、
彼ほど冷静な人間はわれわれ仲間うちでも稀なのである。
彼はすぐカツとならない。潜熱そのものような人間だ。
萩原は悧好過ぎるという奴がいる。
しかし大抵の場合そう云う御本人の悧好さ加減に較べたら
萩原の悧巧さなんかまだまだ馬鹿の部類だ。冗談じやない、
敵にも味方にもお世辞をふりまく芸当が出来ないだけだ。
彼が味方に対する愛を、敵に対する憎しみとを、
はっきり見られない人間は彼を知るわけには行かないだろう。
悧口だとか、
悧口でないとかそんなプチブル的な言葉が
彼にあてはまる言葉であったら、
そいつは一番彼をブベツする言葉であろう。
彼の戦いはすでにそんな呑気な所には腰かけていない。


……


 萩原の筆不精も有名だ。
ときどき電報のようなカンタンな奴をとばす。
とにかく僕らは僕らの仲間の愛や友情の
ついていつまでもくどくど書き立てることに
熱中しなくなっただけでも一歩前へ踏み出したのである。
今また、こんな所でタドタド言ったら、
彼は「つまんない事を云うなって」
苦笑するだろうが、僕らの詩はこれから
ますますカンタンなレポートの型式を帯びてき、
それ故にますます力強くなるだろう。



 萩原恭次郎「七月上旬までの学生街」


 七月の上旬まではともかく美しく活気もある。
白山肴町から本郷三丁目までの街路。
やや太くなった銀杏の並樹の下を学生達の靴の音が、
朝から夜まで絶えない。帝国大学、第一高等学校、
日本医大、女子美術それらの生徒が
両側のコンクリートの道を埋めている。
若い学生はともかく美しい。

 彼等の中にはバカもいるが糞真面目もいる。
小さな反動、小さな野心家、小さな指導者もいるが、
全部が全部ブルジョアの教育を
ウノミにしているわけではないように思う。
大学生は若きプロレタリアには、
人間の屑のように思われている。………

 だが、ともかく美しい。
新鮮であって活気もある。……

 とも角、真面目で勉強家は美しい。
青年の熱情は美しい。未成年的美は甘いが、
一ガイにそれを拒けることはできない。やはり美しい。
本郷三丁目より白山肴町ではとも角美しい。
東京の町を歩っていると交番が一番目につくが、
三丁目の角の交番から第一高等学校前の交番まで、
この間が如何にも学生街の感じである。赤門前、
大学正門前、高等学校前まで片側は校舎、
片側はぎっしり並んだ古本屋に新本屋。

 暑中休暇になるまでは、本屋側にちょいちょい夜店がでる。
金魚や植木、土のついたままの芋だとか
キャベツを売っているのを見たこともある。
ぞろぞろ雑踏する。
歩いている男や女は九十パーセントまでは学生だ。…………


 三丁目から北に向かって燕楽軒の前にくると、
焼きたてのパンの匂いが軽く鼻をつく。
でこでこしたパンがふくらんで硝子の箱の中にある。
その柱の下に浮浪者が腰を下ろし、首をたれて地面をみつめていた。


 燕楽軒の前、俺たちには深い記憶がある。…… 




 三丁目から高等学校前までは賑やかで明るい。
だが高等学校から白山までは暗い。
そして学生の気も少ない。
だが肴町白山通りになると東洋大学、
日本医大の学生が多い。感じはまるきり異う。
………一高の寄宿舎の側の坂を下りた所にある
根津権現のお祭りでも、学生の姿が見えないと、
ここのお祭りらしくないと、ある文士が云った程、
この辺一帯の地は下宿屋ばかりで、
大がいそこの部屋には学生がつまっているくらいだ。


 七月の初旬が来ると、
この辺一帯を埋めていた学生の姿が
全く一人も見られないような淋しさを呈する。
僕は千駄木町に五六年住んでいたので、
学生がいない間は町や通りが広くなって
何んて物静かだろうと思ったことがあった。
そんな時、
根津権現の森でふくろうの声を聞いたこともあった。

 ともあれ、初夏--七月上旬までは本郷三丁目より
白山肴町までは若々しく新鮮で活気がある。
どんな種類の学生がそれを埋めていようとも──。


 



1889523日、群馬県南橘村に生れ、
中学校時代から文学に関心が強く、俳句を発表していた。


 修道院志望など 萩原恭次郎

 

 父は秋田鉱山専門学校、上田蠶絲専門学校及び一高、
そのいづれかに受験しろと云った。
他の私立学校には断じて入学させないと言い切った。

父はまるで自分の息子を知らなかったのだ。
ただ将来息子の「喰うに困らない」学校に入学さしたいだけだった。
僕は返事をしずに、その代り一月ばつか家をあけて、
木賃宿にとまつたり、百姓の家にとまつたりして帰って来た。
父は学校の事に就いてはそれ以後、
一言も口を出さなかった。僕もおくびにも出さなかった。

 
前橋正教会のその頃の牧師吉村忠三氏に
月水金に聖書の講義をされに通った。
(吉村氏は今春、雑誌『新ロシア文学』を出した人である。)
やがてその年の暮れ頃から日曜学校の先生みたいな事を初めた。
ハバロスク(?)の修道院に行く覚悟をもっていたのだ。
でも、最後までただ一つ信じようとした同教会の信者に、
なれなかった。
この頃同市新町の斎藤さんと云う家で
土曜日毎に宗教的な会合があって僕も出掛けた。
然しそこで宗教的な話しよりもより人道主義的な、
かつ社会主義的な事を座談的に喋った。
で、中には一日の仕事が終ってから、
同市の女工に自ら進んで裁縫を教えたり、
宣伝的運動を初める奮闘家も幾人か出て来た。

 ハバロスク行きは丁度出発に決心した頃パルチザンの修道院破壊、
修道士が殺されたり下野で、
吉村氏の忠告に従って断念した。
氏にはこの頃、月水金にロシア語を習った。


ある時は鉄工所へ行った。
ある時は畑へ鋤鍬をもって出掛けた。
ある時は秘密結社的存在をつくった。
諏訪町の長岡屋と云うそば屋の二階によく集った。
僕等の周囲には社会主義的人物は一人もなかったので、
幼稚ながら議論が戦わされると共に、熱っぽい感情に強く支持されていた。

赤十字の雇に入った。
六ヶ月ばっかで止めた。

 この頃、非常な興味をもって、
友人の新聞記者の家へ行って通信記事や新聞記事を手伝った。
農村運動を起すのが、我々の希望だった。

萩原朔太郎氏にもこの頃よく逢わした。
その後同氏にすすめられて、
文学の研究会を開いた事があった。
この時の氏は誰が欠席しても氏は欠席しなかった。
黒化社の、深沼火魯胤君もやはり同市で新聞記者をしていたので、
互いに親しく成り初めた。僕はこれらの間に愚劣な詩を書いていた。
 

学校を断念した代りに、
いわゆる二十才的勢力で
手当たり次第本をあさり読んだ今、
東朝の記者をしている山崎晴治氏など先輩として
読書会もつくられた。


僕は極端にこの頃無口で
づい分したしい人の前でないと口をきかなかった。
喋ると語調が激したようになるので、一層無口でいた。

今思えば、二十才頃、何が自分にあったろう。
思い出そうとしたって何もある道理はない。
すべては毛のはえかからんとした二十才の頃の
体臭のようなごっちゃな、むし暑くむんむんしていた頃だった。

ただ、何者かを独でウンウン持ち上げてゆこうと云う勢力が
それらの裏付けをして、
見るに堪えない文学的青年から幾分でも救っていてくれたと思う。
然し、この私の「物の判らない熱心の余りのキザさに」
自分は何も今赤面する必要はないと思う。
今も、あの頃と変らない部分がないとは、
云い切れないからだ。
然し、断るまでもなく追憶的廿醉と云うようなイヤなものは、
絶対に持ちたくないし、
また幸なことには何等の追憶的なる「出来事」も持っていなかった。



2004年記 
 
萩原恭次郎を深く知るようになったのは
5年前であった、
1999年にある詩人に同行を求められ「萩原恭次郎生誕100年展」を
訪れてからであった。
恭次郎の生誕地、前橋に至近の高崎市郊外にある
土屋文明記念文学館で開催されていた。


2003
年の晩秋、前橋に向った。
北関東を訪れるのは展覧会以来であった。
前橋市内からは北を望むと赤城山がくっきりと姿を現していた。
萩原恭次郎の墓碑訪問。

その日、
1122日は萩原恭次郎の命日であった。
1938年に故郷の前橋で病死した萩原恭次郎が
今でも世間に少しは知られているのは詩集『死刑宣告』の著者としてであろう。


 そこからアナキスト詩人として、
あるいは晩年の国家の側に立つ詩を発表したことにまで
関心を向けるのは限られた読者である。

生誕
100年展が故郷の群馬県立の文学館で
開かれたのは当然であろうが
その企画には当時の館長であり恭次郎たちと同時代、
詩人として活動した伊藤信吉の存在が大きかったといえる。


伊藤が編集し恭次郎も寄稿したアンソロジー詩集が
『学校詩集』というタイトルで
1929年に刊行されている。
高村光太郎の詩も収載されている。

 高村も北関東の地に愛着をもち赤城山を好んでいた。
19291016日、赤城登山で前橋を訪れている。

「逸見猶吉、草野心平等の詩人たちと登り、
猪谷旅館泊、萩原朔太郎が前橋駅まで迎えに出る」と
前橋出身の伊藤信吉は回想している。


『逆流の中の歌』
197710月刊、泰流社。


 詩人たちが赤城の何処に登ったかは定かではない。
高村は後に『赤城画帳』という詩画集を残している。
西山勇太郎編纂、高村もまた渓文社に協力した詩人の一人であった。
神谷は『断片』表紙タイトルの書き文字の
仕上がり具合を高村に見てもらっている。
竹内の詩集タイトルの幾つかは高村の筆になる。


恭次郎の墓は当時の市外である利根川を越えた石倉の寺に建てられていた。

 恭次郎は中学時代からの詩作で赤城山に触れてきた。


恭次郎の墓所からも赤城山は望めた。
風は強く切花が揺らぐ。
黒檜山の風はさらにきついのだろうか。
交通の便次第で、赤木連山の一つ黒檜山に登るつもりであったが
前橋駅までは電車のつながりが悪かった。

 

恭次郎の最初の『死刑宣告』は再版までされ評判になったが、
恭次郎自身の生活はその後も余裕は無かったようである。
また直後から実際のアナキズム活動に関わり、
続けての「詩集」刊行の余裕はなかったと推測する。

 
恭次郎はそれぞれが担当する部分で力を発揮することが
最良の作品をつくりあげると確信していた。


「………病めるT君の『叛く』は
前橋と八王子の第二社で出来上がり、
矢張り『移住民』同様、南方詩人社で批評とよろこびの号を出した。
…作者個人の意志のみでなく、
彼等が集まっているグループの人々の意志が、
それを促して出版の運びに至らしめているのである。…………………
1931.1


 病めるT君とは竹内のことである。
生活領域、地域が離れていても相互に助け合い
小部数の出版活動が成立していた。
この論文はすでに立ち上がっていた渓文社の
活動にも誘発されて書いたのであろうか。

 

渓文社

設立から数年時の広告がアナキズム系労働運動の機関紙に残されている。

「自分らの手でよいもの私達のものを出版してゆきたい」


広告『第二曙の手紙』(『自由連合新聞』661932110日発行掲載)

当初からの出版活動の方針を維持していた。

1928
年 『銅鑼』5月 
第十五号
1928.5.1 活版印刷 前号に同じ


木村(竹内)てる代、坂本七郎が同人に加わる 3月 2月 


一二号は19279月刊

M・マルチネ(尾崎喜八訳)、三野混沌、森佐一、カ
アル・サンドバアグ「シカゴ」(草野心平訳)、高村光太郎、碧静江

草野心平「子供の天真性に就いて(現代学校の起源と理想)第十五章」
(フランシスコ・フエラア)


第十六号 活版印刷 発行所・東京市外杉並町字成宗34 銅鑼社 
カアル・サンドバアグ「嘘ツキ」(草野心平訳)、
レオン・フェルト(尾崎喜八訳)

岡田刀水士、碧静江、三野混沌、猪狩満直、
竹内てる代、小野十三郎、森佐一

評論 神谷暢訳「革命を圧服した力」(エムマ・ゴールドマン)


1928


8月 麻布天現寺の下宿「福生館」に移り住む、
慶応の学生だった金井新作の下宿、夏期休暇で沼津に
金井が帰省している間、向かいに小野十三郎の部屋があり、
土方定一も一時住んだ。

恭次郎の送別会と繋がる(草野の回想にはない)


9月 逸見猶吉、大江満雄などがよく「福生館」に現れた

同月坂本七郎のすすめで前橋市神明町に転居


12月 『学校』創刊


1929年 

2月 草野心平、伊藤信吉らと安中町に遊ぶ。 


1929

第二号1929.2.1編集、北山癌三(草野心平) 
印刷、草野心平 発行、横地正次郎

三野混沌、尾形亀之助、草野心平、竹内てる代、芳本優子、
黄瀛、ヘルマン・ヘッセ(尾崎喜八訳)、神谷暢、伊藤新吉、伊藤新吉


第三号1929.3.1編集北山癌三 印刷、伊藤新吉 発行横地正次郎

エミール・ゥェルハアレン(高村光太郎訳)、
カール・サンドバアグ(草野心平訳)、
岡本潤、竹内てるよ、三野混沌、、
小森盛、山本一夫、神谷暢、尾形亀之助、
岩瀬正雄、坂本七郎、佐藤英麿、半谷三郎、
大江満雄、草野心平、伊藤新吉、小野十三郎、杉山市五郎、黄瀛


第四号1929.4 編集、草野心平 
印刷、伊藤新吉 発行、横地正次郎、神谷暢、
小野十三郎、逸見猶吉、岩瀬正雄、竹内てるよ、
岡本潤、碧静江、金井新作、伊藤新吉


第五号1929.5.5印刷、伊藤新吉発行、横地正次郎 編集、草野心平

萩原恭次郎「トンネルの中を動いている汽罐車」「断片1 2」、
伊藤新吉、高村光太郎、小野十三郎、
岡本潤、尾形亀之助、吉田一穂、竹内てる代、三野混沌


1929

4月『黒色戦線』4月号
第一巻第二号「或る婦人参政権論者への手紙」
お送り下さつた『婦選』ありがとう…


1929

5月『黒色戦線』5月号第一巻第三号「母さんあなたは生きていますか」

5月『叛く』刊行 


5
月 『第二』第四号 
1929.5 発行所・東京府下八王子市子安町78子安館内・第二発行所 
おもちやの馬 詩 竹内てるよ 


6
月 『第二』第五号1929.6 
短信──「異邦児」の作者へ 詩 竹内てるよ 


7
月 『第二』第六号1929.7 二人 詩 神谷暢 友愛 詩 竹内てるよ 


7
月 『学校』第六号
1929.7.10 
東京市外渋谷神南8 市川方 
発行・編集・印刷横地正次郎、伊藤新吉 小野十三郎、
金井新作、岩瀬正雄、竹内てる代、坂本七郎、
神谷暢、萩原恭次郎「断片三篇」、草野心平「詩集『叛く』評」


9月 『第二』 第七号1929.9 
答へ 詩 竹内てるよ 


10
月 『第二』第八号1929.10

第二夕暮の詩 詩 坂本七郎 曙の手紙 竹内てるよ 


11
月 『第二』第九号1929.11.10 
ぼく達は戦ふ 神谷暢 思ひ出 詩 竹内てるよ


12
月 『黒色戦線』12月号 第一巻第七号


 萩原恭次郎と小野十三郎の詩に挟まれて、
岡本潤の詩 〈ゲルさん、意を安じてくれ〉
「…竹内てるよは病気がひどくなるのに反比例して
いよいよ健康な闘志を輝かせている…」、
金井新作と一人おいて竹内てるよの「それは偽りだ」